アッチの街の片隅から愛を込めて

迸るほどの愛を込めて、濃厚かつ丁寧に音楽その他色々を語ります。

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私はそれを許せない 〜ちょっと萎えさせんといてくれる?

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“ギャップ萌え”なる言葉が存在する。この言葉が果たしていつ頃からこの世に誕生し、世間に浸透したのかは知らないが、今や当然のように人々(主に若い女性たちのイメージ)の会話の中に出没し、また誰彼の人間性を知り得るための感覚そして現象の一種として居座っているものだと感じる。

 

私はこの言葉が好きではない。懐の問題だと感じているからだ。“ギャップ”が生じ、萌えを感じられるということは、その特定の人に対する勝手な先入観が存在している状態である、もしくは単純にその人に関して無知であることが大きな条件であり、つまりギャップ萌えとは「勝手に想像して勝手に感動している」現象であると私は思っているからだ。

または単純に、ギャップ如きで萌えるほど私の心は忙しなくないからだ。勿論、人に関して思いもよらなかった性格の部分や、趣味趣向が発覚した時に、感動を覚えたり感銘を受けることはあるが、それは決して“萌え”ではない。悶え興奮し、はたまた恋愛感情さえ生まれてしまいそうな脳内お花畑なものではない。素直な感動である。わざわざ萌えてもいられないのである。

という、今回の主題への前提である。

 

 

私にとって許せない、もしくはそれを許すためには非常に寛大で豊かな心を持つ必要があるものがある。それは何か。

 

 

ヤンキーが手帳型スマホケースを使うこと、である。

 

こんなにも虫唾が走ることがあるだろうか?このことについて具体的に掘り砕いていく。 

 

 

数多く存在するスマホケースの中でも、手帳型ほど機能性と防御力の高さに富んでいるものは無いと言えよう。蓋となる表紙を閉じることによって、たとえスマホの画面側を下にダイレクトに地面に落としたとしても液晶が割れることは殆ど無いと言える。また、大抵の手帳型ケースの蓋の裏面には、カードを複数枚収納できるポケットが存在し、Suica等の定期券や免許証、社員証等をそこに仕舞うことで、それらの手軽な利用と出し入れを可能とする。スマートフォンという現代における我々にとっての身近な存在を有効に活用した方法である。

そんな利便性に優れた手帳型スマホケースを使うヤンキーが私は許せない。

 

ヤンキーとは至って攻撃的であり、どちらかと言えば反社会的である。どういった経緯でその生き方に至ったのかは分からないが、社会で真面目に規律を守って生活する人々にとっては迷惑極まりない存在であろう。

そのヤンキー、もしくはヤンキー風の男が手帳型スマホケースを使い、己のスマホをガチガチに保護し、かつ計画性に溢れた行動をすることが理に適っておらず、許せないのだ。

 

 

守るなよ、と言いたい。何故守る?ヤンキーは破滅的に生きることが世の常であり、そんな彼らが自分のスマホの液晶が割れることを恐れることがあってはならないのだ。

 

そもそもヤンキーは頭の悪そうなスカルマークのデザインのものや、派手めな色に染め上げられたプラスチック製のケースを使うことが関の山である。お洒落なデザインで丁寧に作られた革製の手帳型スマホケースを使うことなどはあってはならない。柄ではないのだ。もしくは潔くノーケース。故に液晶に関しては過去2,3度の落下によってバキバキに割れているくらいが丁度良いのだ。保護フィルムに関しては甘んじて着用を許可するものの、完全に封印されて取り出せない気泡が1,2個程度画面上に無くてはならない。

またSuicaや免許証をケースに入れて便利に携帯してはならないのだ。合理的なヤンキーなど存在してはならない。如何なる時でも刹那的に生きる、そんなヤンキーであっていただきたいのだ。

 

ギャップ萌えという言葉に関して多少の嫌悪感を抱き、やれスルーを決め込む私ではあるが、この“ギャップ萎え”に関しては酷くダメージを受けてしまうのである。痛みを超えて苛立ちを感じてしまう。辛いのだ。それであるならば、せめて萌えていたい。

 

私は言いたい。「手帳型スマホケースを使いたいのであれば、真っ直ぐな人の道を歩め」と。

世の手帳型スマホケースユーザーには、それに似合う生き方を心掛けていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

仮想敵シリーズ来ましたね。笑 長々と何をほざいているのか、自分でも困っておりますが。

とは言えですね、結構本気で許せないんですよこれ!笑 なので世の中のヤンキー諸君!私を萎えさせんといてな!

 

 

 

でも本当に一番許せないのは、

人の不幸をネタにして甘い蜜吸おうとしている底辺YouTuberなんだよなぁ…。

本当に腹ただしい。人間の屑め。

 

 

っていう本気の怒りを最後に。

ではまた!

 

 

奥田英朗「イン・ザ・プール」-活字初心者・苦手な人にも本気でお勧めできる1冊

イン・ザ・プール ドクター伊良部 (文春文庫)

音楽以外にも読書が一つの大きな趣味である私である。今回は私が敬愛する小説家とその著書をご紹介させていただきたい。

 

奥田英朗がこよなく好きである。イン・ザ・プール」「オリンピックの身代金」「ナオミとカナコ」等、多くの代表作品を持つ、日本を代表する小説家の一人である。

正直に言うと、自分の文章の書き方もかなり奥田英朗の影響を受けていると感じております。

 

ミステリーにファンタジー、青春群像劇にヒューマンドラマまで多彩に幅広く書きこなす腕前は天下一品である。作品本来のストーリーの面白さもさることながら、登場人物のキャラクターや舞台のディテールを大切に組み上げていく作風が非常に魅力的であり、圧巻である。ズバリ書き込みの濃さ、である。“痒いところまで手が届く”、という表現をしたい。毎度綿密なディテールを持って物語が進み伝わってくるので、それにより読み手の作品への入り込み方が濃厚に変わってくるのである。脳内で登場人物が動く動く、景色が浮かび上がり描かれる。グワグワ感情が揺さぶられる。ページを捲る指は止まらない。圧倒的で重厚な読後感。気が付けば奥田スタイルの虜となっているのだ。

そういった脳内映像化のし易さであったり、エンターテイメント性溢れるストーリー展開がある作風だからこそ、作品の映画・ドラマ化といったメディアミックスも非常に多いのである。世間の非日常欲を満たし続ける、紛れもないビッグヒットメーカーである。しかし私が声を大にして言いたいのは、それとは対象になんてことのない些細な日々の中にある温もりや幸せも表現できる懐の深さを兼ね備えているのが奥田英朗の素晴らしさなのである。

フィクションからノンフィクションまでの幅広い器用な書き分け。そしてどこにも一貫して溢れるのは“人間味”である。時に優しく時に儚く悲しい。そして温かい。極め付けには笑える。もうこれが私には堪らないのだ。

 

 

奥田氏の作風について、もう少し具体的に説明したい。それは各キャラクターにおけるバランスの取り方の妙である。

例えばAとBの2人の登場人物がいるとする。Aにフォーカスを当てる場面とBにフォーカスを当てる場面をそれぞれ平等に設け、どちらにも“言い分”を持たせてあげるのだ。Aを立たせれば次はBも立たせる、といった形で絶妙なバランスを取りながら、各キャラクターに読み手の感情が入り込む余地をガンガンに作っていくのだ。また、そのバランスが綺麗に取れているので、物語の進行とそれに対する読み手の受け容れ方も滑らかになるのである。

上記のことは実際に奥田氏がインタビューで発言していたことでもあるが、この奥田氏のディテールへの美学こそが作品の本質を浮き彫りにし、やがて我々を読書の恍惚へ誘うのである。丁寧に表現する卓越されたスキルとテクニックは流石。

 

故に「オリンピックの身代金」や「ナオミとカナコ」といった作品のメイン登場人物は、一般的な考えを持ってしては必ずや咎められるべき存在であるが、読み進める内に不思議と彼らを全力で応援し、スリルを共にする自分がそこにいるのである。これが奥田マジックである。人間味、全開である。是非堪能していただきたい。

 

 

 

そしてご紹介させていただく作品はイン・ザ・プールである。言わずと知れた奥田英朗作品の中でも最も有名なものでないでしょうか。

 

精神科医・伊良部シリーズの第1作目。2002年刊行。この後2作目「空中ブランコ」、3作目「町長選挙」と続き、「空中ブランコ」では直木賞を受賞。大ヒットシリーズである。

 

私自身、この「イン・ザ・プール」が奥田英朗作品との最初の出会いである。しかも読み始めたのは人生的には割と最近で、7年前程である。どういった出会いだったかは覚えていないが、その時はブックオフでたまたま目に入ったので買ったのである。何となく作品名は知っていたと思う(多分)。気付けば本当に良い出会いをした。

 

 

色白でデブの奇抜な精神科医・伊良部一郎。そしてその精神科に訪れる、奇妙な症状や悩み事を抱えた患者。伊良部の突拍子も無い治療の数々に患者は戸惑い呆れながらも、不思議なことにいつしか伊良部の術中に取り込まれていく…。

 

 

イン・ザ・プール」という題名の作品であるが、5つの短編で構成されている短編集である。1話読み切り型なので非常に読み易いのである。何と言ってもこれが活字初心者にもお勧めの第1ポイント!ついでに表題作は第1編に登場する。

 

 

とにかく笑えるのである。マジで笑える。楽しい。これを読めば読んでいる間は嫌なことを忘れられるのである。

 

何と言っても伊良部のキャラクターが最高だ。どう考えても常人ではないのだが、みるみる内にその滑稽さと破天荒な振る舞いに惹かれていってしまうのだ。そしてそのやり方はどこかしっかりと理に適っているからまた面白い。癒されてしまうのだ。

 

そして各患者のキャラクターも魅力的である。「こんなことあるわけねえだろ」なんて思いつつも、実際人間と言うものは分からないもので、自分でも誰にもいつどこで常軌を逸するかは未知数である。患者にも立派な言い分やそれなりの理由があり、その状態に達してしまっているのである。そういった人間の本質の捉え方もまた巧みで、これまた引き込まれてしまうのである。ただ、「勃ちっ放し」(2編目タイトル)には流石にそうはなりたくないが…。笑

 

サブキャラのマユミもまた良い味を出している。この女キャラがいるといないで作品の味の奥行きが変わってくる。料理で言うところの料理酒である。バランサーが随所で絶妙に活躍してくれるのだ。

 

改めてになるが、本作はニヤケて笑えてほっこりも出来る物語の数々である。爽やかな読後感が待っていることであろう。

 

 

 

と言うわけで、とてもサクサクと読み進められる一冊でございます。小説に興味がある人、活字が苦手だけど読書に挑戦したい人にはまず奥田英朗イン・ザ・プール」をお勧めさせていただきます。とにかく読み易いです!

 

映画化もされておりまして、その映画の伊良部役は松尾スズキなのですが、自分の脳内イメージでは芋洗坂係長なんだよなぁ…。笑 

 

ついでに個人的には2作目「空中ブランコ」収録の「義父のヅラ」がもう可笑しくてしょうがないです。笑 そして同じく収録されている「女流作家」では、今でも思い出し泣きしてしまいそうな温かい展開が待っております。こちらもご興味あれば、是非。

 

皆さんの人生にも豊かな読書ライフを!ではまた!

 

 

正直者のセレナーデ

新型コロナウイルスの影響で停滞する社会と人々を横目に、次々と季節が移ろいゆく今日この頃である。つい先週くらいまでは、まるで初夏の訪れを感じさせるように暑い日が続いた。

世の中絶賛ステイホーム期間であるが、様々なことを考えたり普段出来ないことを実践したりと、人々がそれぞれが思い思いに過ごしているのではないだろうかと思う。

 

 

普段は健康と体型維持のためにランニングを行うことを生業とする私であるが、ここ2ヶ月は外を走っていない。万が一のことがあるのを危惧して止めている。ランニングとはThe有酸素運動。息を吸ったり吐いたりしなければならないからだ。

 

代わりとして、ここ最近はYouTubeでトレーニング動画を観て自宅で体を動かしている。「滝汗トレーニング」なるものだが、筋トレと有酸素運動、ストレッチを一纏めにしたものである。これが正直10㎞走った方が楽だとすら思えるものである。日頃どれだけ筋肉を使っていないのかが丸分かりである。非常に良く考えられているメニューである。とてもキツイ。体の節々が悲鳴を上げる。しかしそれが良い。賃貸なので近隣部屋の住人の方にも気を遣いながら、じっくりと体を動かす。シバく。汗をかくことが気持ちが良い。運動って素晴らしい。鬱屈した今だからこそ尚更である。

 

レーニングの後は当然シャワーを浴びる。ここ最近は暑い日もあり、湯の温度も初春に比べて下がる。火照った体には尚更だ。熱湯に冷水を含ませて、肌に心地の良い温度に調整する。この温冷のバランス取りが難しい。

それは音楽における楽曲制作と似ていると、ふと感じたのである。音が割れずに出力される(できる)音量には限度がある。またそれを聴き入れる人の耳の感覚もそうだ。各楽器の音やそれぞれの音域がバランス良く聞こえるように調整しなければならない。分け合わなければならないのである。なので、聴覚を研ぎ澄ましてツマミを上げ下げしなければならない。

また、中学生の頃に理科の授業で習ったガスバーナーを思い出した。送り込むガス量を調整して、炎の色を適正の青色にする。当時この作業には自信があった。班で率先してガスバーナーを操り、絶妙なバランス取りを炸裂させていた。

そんなことを思ったのである。

 

 

元々料理はする方であるが、この機会に敢えて時間のかかるものを作ってみたりもした。もはや食くらいしか楽しみがないのだ。なので、豚の角煮やチャーシューを作って、食った。

カレーもよく作った。冷凍のシーフードを使ったり、豚バラブロック肉を厚切りにして贅沢に使ってみたりしたが、様々試して結果分かったことがある。結局カレーは薄切りの豚バラ肉を使って作るのが一番美味い。旨味的なところが違う。そう、何の捻りも変化も要らなかったのだ。シンプルかつ王道がベストである。これはガチだ。このことが分かっただけでも、カレー狂の私としては得たものが大きいステイホーム期間となったのだ。

 

ある意味欲望に従うのが、今の上手な生き方なのかもしれないと思う。何かをすることも良いし、気分が乗らなければ何もせずダラダラと過ごすのも良い。そこから何かが見えてくる。何かしら考えは浮かんでくる。正直な気持ちで生きていくのが良いのではないかと思う、今日この頃である。

 

そして俺は素直になって、

 

 

再び煙草に火を点けているのであった…!

 

 

(えー、1ヶ月はマジで止めてました!でもまた吸っちゃってますゴメンナサイ!でも本数は以前の半分になりました!)

 

ではまた!

 

 

【ご報告】

ブログ開設から約1年5ヶ月が経過しましたが、累計1000PVを突破いたしました。皆様ありがとうございます!

 

 

春風と破裂音

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人の忠告を素直に聞いておけば良かったと思う時がある。特にその人が何かの物事について専門的な人であればあるほど、そうだ。恐らくその人の“経験則”的なものが自信であり、忠告そのものの重みを増させるものなのであろう。

 

普通自動車免許を所有している私ではあるが、現在のところ車の必要性を感じる生活を送っているわけではないので、自転車をメインの移動手段としている。かれこれ自転車とは長い付き合いである。特別感すらある。

 

しかし、そのくせ自転車運というものがない。中学生の頃はしょっちゅう自転車の鍵を無くしてしまい、その都度学校の先生にも一緒に探してもらい、御手数御心配をよくおかけしたものだ。

そしてよくパンクする。これが深刻だ。年2ペースくらいではパンクしている。毎度だがお金がかかって仕方ない。恐らく乗り方の問題もあり、なんでもタイヤ内の空気は常に満ちている状態であることが重要なのだと。本来であれば度々気にかけて空気を入れておかなければならないのだが、私はついついそれを怠ってしまい、結果ちょっとした油断と怠惰が余計なパンクを招いてしまっていると言っても過言ではないのかもしれない。

 

そしてとある日また自転車のタイヤはパンクしたのだ。またか、と。タイヤの空気とともに、私の気持ちもフニャアと抜けてしまったのである。

 

 

近所に2箇所、行きつけの自転車屋さんがある。最近は家からすぐ近くの方に訪れていたが、気分を変えたくなりもう一つの店に行くことにした。

そこは自分が高校生の頃くらいから通っている。おじいさん店主が安定の腕前を愛嬌を見せながら店を切り盛りしている。“信頼と実績”とは彼のために存在する言葉だ。

 

しかし、そんな彼が一点だけ私にとって困るポイントがある。こちらとしてはパンクを直してほしいだけなのに、毎度チューブ及びタイヤ交換を促されるところだ。その都度反応に困るのだ。実際過去に交換をしてもらったこともあるが、今はまだその時期では無いだろうという私の読みである。

 

そして今回もまるでお決まりのように同様の台詞が彼から飛び出した。が、とりあえずパンクを直してほしい、乗れれば良いというこの時の考えの私だ。「(パンクを)直しても、すぐタイヤがイカれちまうよ」と彼は仰っていたが、お金も勿体ないのでパンクのみ直していただいた。何度も言うが、腕は確かだ。見る見るうちに修理は進み、復活。そして我が自転車は再びその息を吹き返し、あの素敵な軽快な走り心地をまた感じさせてくれるのである。

 

 

 

数日前のことである。食料品や生活用品の買い物へと、近所を自転車漕いで移動していた。昨今のコロナウイルスの影響もあり、買い物くらいでしか休日は外に出ないのでちょっとした気分転換でもあるこの時間。春風を感じながら軽快に自転車を飛ばしていたのである。

 

家からはやや離れた、目的のスーパーが見えてきたあたりでのことだ。

急に「パァーーン!!」と、まるで抜けの良いスネアドラムのような渇いた音が響き渡ったのである。私は驚き、自転車を止め周囲を見回した。

 

するとどうだ、自転車の後輪が完全にパンクしていたのである。運転時における破裂パンクは人生初である。やってしまった、と。しかもよくあるいつものパンクではない。自転車を無理にでも手で押すと、後輪のタイヤとチューブがホイールからフニャフニャと外れ、車体自体に絡まってしまったのである。そして後輪は動かなくなった。完全にやらかしたパターンである。自転車を動かすには荷台を持ち上げて、前輪のみで前進するしかない。マジでダルいやつである。

 

なんとかスーパーまで辿り着き、駐輪場に自転車を停める。さて、どうするものかと。

 

しかし、ここで意外にも冷静であった自分が居たのだ。と言うのも、私は1年程前に自転車保険の加入を済ませていたのである。その保険サービスの一環で「自転車ロードサービス」たるものが存在していることを頭の片隅に入れていたのだ。つまり、壊れてしまった自転車を自分の代わりに運んでくれる、というものだ。

 

日々安全運転を心掛けている故に、この日まで自転車保険は“お守り”としての効力でしか無かったが、幸か不幸か、遂にその実力を発揮する時が来たのだ。

 

早速専用のアプリを介し、ロードサービスの出動要請をする。程なくしてサービスセンターの方から直接連絡を頂き、事情を説明する。特に問題もなく、要請完了。40分程で来ていただけるとのことであった。もう、一安心である。有難すぎる。

 

しかし、こちらまでの到着までの時間が中々長いので困ったものである。陽はやがて段々と落ちてきて、気温は下がっていく。春風も強く吹き付け、非常に寒いのである。近くに図書館があるので、本来であればそこで時間を潰すものの、現在は当然休館中である。暖を取るため、仕方なくスーパーの中をひたすらにウロウロしている他無かったのだ。完全無欠の怪しいヤツである。

 

もう爆裂的に煙草が吸いたくなりましたよ。笑 何なんだ一体、と。「パァーーン!!」じゃねえよ、と。笑 しかし我慢しましたけどね。

 

要請から約40分後、表に出て到着を待っていると、それっぽい軽トラックと、またそれっぽいバンが駐車場へ入り込んでくるのが見えた。「おぉ、救世主の登場じゃ」と、つい安堵の息を漏らす。しかしそのどちらでもなく、別の方向からオレンジ色の作業着を身に纏った愛想と体格の良い男性が私の方へと歩いてきたのである。あれま。ともあれ、現場到着である。作業員の方は後輪が萎れ切った私の自転車を確認し、そして「自宅までで良いですか?」と私に自転車の運搬場所を確認した後、ドナドナ自転車を運んでいったのである。込みこみで1時間程膠着状態の私であったが、こんなにも助かることはない。お礼、感謝。

 

ついでに、防犯上の観点から私自身は運搬車に同乗できないのである。笑 なので一人歩いて帰りましたとさ。

 

 

いやー、参ってしまいましたよ。最初からあの自転車屋さんのおじいさんの忠告を聞いていれば、こんな急なアクシデントは起きずに済んだのかもしれないですね…。

非常にダルかったです。ただ、一番ダルいのは「これもブログのネタになるぞ!」と思ってしまった自分であることは間違いないのである。

 

皆さんもくれぐれも自転車にはご注意を!ではまた!

 

 

 

パエリアに憧れて

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「未来」、それは当然我々には知る由も無い。例えば、その人に特別な予知能力があるのであれば話は変わってくるが、普通の人であればそのような奇跡は存在しないだろう。先のことなど、普通の私達には分からないのだ。

 

ただ一つ言えるのは、「今」とはつまり「あの日あの時の未来」である。幼かったあの日、そして物事を今よりも知らなかったあの時から現在。どんな未来たちが私達を待ち、私達を出迎えたのでしょうか。

 

自分もそうであるが、人は大体の自分自身のことが理解できてくると、自然と物事に対する可能性を途絶えさせてしまうことがあるのでは無いかと思う。単純に言うと向き不向きだ。何となく自分が苦手であったり、相性が悪いと感じられるものには自然と手を出さなくなっていく。それどころか、避けていくようにもなっていく。

その逆も然りであり、得意な分野や好きなものに対しては堂々と足を進み出せる。より知りたい、深くなりたいと思える。これらについてはなんて事のない普通のことであり、本来の人間が持つ建設的な考え方によるものであろう。

 

 

しかし、時としてウルトラCが人生には起こる。予期していなかったことが起こることがあるのである。(ウルトラCとか言っている時点で、自らはもう若くないと思ったりもしている)

 

それはつまりどういうことか。

 

まさか自分が好きになると思っていなかったものを好きになる、という経験はないだろうか?

苦手だと思っていた、知らぬうちに距離を取っていた人と何かの拍子で互いに大切だと思える関係になったことはないだろうか?

まさかハマると思ってなかったものに、急にどハマりをする経験はないだろうか?

道理を越える、という経験だ。

 

 

私の場合、その一つが音楽である。私がとても音楽好きであることはなんとなく当ブログを読んでいる方であれば薄々感づいていると思うが、そもそも自分がこれほどに音楽に夢中になるとは、少なからず子どもの頃は思っていなかったのである。

 

小学生の頃は音楽の授業が苦手であった。たまに訪れるリコーダー演奏のテストなんてものはもう最悪で、緊張はするわ上手く吹けないわ、大嫌いであった。地獄の時間であった。音楽に対して一切特別な感情なんて抱いたことはなかった。とても縁がなく、遠い存在と感じていた。興味自体無かったのである。

 

しかし、小学6年生あたりからそれは一転する。きっかけは当時4人組のDA PUMPだ。自分でも知らぬ間だった。予想不可のスピードであった。何故だか分からないが、一度彼らに触れた瞬間から、その魅力に強力磁石の如く吸い付けられ引き込まれてしまったのである。DA PUMPのカッコ良さに惹かれ、そこからどんどんと景色が広がっていくように、晴れて音楽好き人生が始まったのである。これがまさにウルトラCである。

 

また、前回の記事にも書いた煙草についても、ある種のウルトラCである。大嫌いだったものが大好きになるパターンのやつ。そして、急に辞めてみるってやつ。笑

 

 

そしてここ最近である。新たなウルトラCが私の身に降りかかろうとしている。

 

 

空前絶後のサッカーブーム到来である

とりわけ、海外の。

 

 

 

サッカーほど私と縁のないスポーツは無い。小学生の頃は友達と遊びでやっていたこともあったが、所詮は遊び。特別に思うことなど一切なかった。

 

更に、自分は小学4年生あたりから野球に夢中になる。松井が好きだった。世代的にそうですが、松井とイチローですよ、やっぱ。いつのまにか、野球をやるようになるのである。始めたきっかけは忘れたが、単純に楽しいからやっていた。テレビで野球を観るのも好きだった。選手の背番号を覚えることもハマった。コロコロコミックで連載されていた「ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん」を夢中で読んでいた。プロ野球選手になりたいと思ったこともあった。野球というスポーツが、他のスポーツよりも頭一つ出る、特別なものとなった。

 

その流れで中学の頃は野球部に所属した。まあ結局野球への情熱は中学途中で消え、そこからは音楽やお笑いといったエンターテイメント大好き人間へと相成るのですが。一見明るいが、根は暗い陰キャラ中学生だったと思う。

 

野球とサッカー、どちらとも日本を代表するスポーツであり、その人気を二分している感は否めないだろう。どことなく、それぞれのスポーツに取り組む人間の性質も違うと思う。性格的な部分や考え方の部分だ。

 

野球少年だった自分としては、サッカーというスポーツはまるで縁がなく、サッカーを好む人に関しては、自分と全く正反対のベクトルにいる者なのだと思っているのである。そう思っていたこの30年間であった。

 

 

1ヶ月程前である。時すでにコロナ影響による自粛ムードであり、気軽に遠出で遊びに行くことを憚り、ある日歳下の友達君とゲームのウイニングイレブンをして遊ぶことにした。彼はサッカー好きである。

 

ウイイレに関してはちょいちょい遊んだことがあり、正直好きな部類であったが(好きなんかい。笑)、おおよそ中学生ぶりくらいのプレイである。これが大盛り上がりだったのである。「アッチさん!メッシ使いましょうよ!」なんて言われ、ぶっちゃけ言うとこの時顔すらもピンと来ていなかった、名前だけなんとなく知ってるメッシを使い、勢いに任せて遊んだ。神の子メッシはウイイレでも遺憾無く神の子っぷりを見せるのである。何しろスピードがダンチである。速い速い。どんどんDFを抜いていく。手に汗かきながらコントローラーを握り、まさに少年時代に還ったこの瞬間であった。

 

そして私は単純である。「サッカー楽しいな」と。もっと選手の名前覚えてぇ、サッカー詳しくなりてぇ、となったのである。

 

日本のサッカーも良いが、やはり海外のスピーディかつテクニカルなサッカーに惹かれるのである。しかし全くもって知識ゼロと言って良い自分。もうそこからは全力でWikipediaYouTubeの名プレイ集で猛勉強である。いやメッシは神の子やなと。クリロナ(クリスティアーノ・ロナウド)もヤベーなと。ブスケツスゲーなと。とにかく知識を頭にブチ込んでいくのである。そして覚えたことはすぐ言いたくなる私でえる。すぐエル・クラシコ言いたくなる。単純である。ウルトラC、此処に在りだ。

 

サッカー好きの友人の影響もあり、みるみるハマってきている状態である。それ故に逆に後悔もしている。もっと早くサッカーの魅力に気付いていればと。往年の名選手がもう引退していたりするのである。シャビがいる時代のバルサが観たかった。

しかし彼は言った。「まだメッシとクリロナが現役なんですよ!遅くないですよ!」と。ありゃあシビれたね。良いこと言うな、と。

 

まさかここにきてサッカー好きになるとは、と。これだから人生面白い。

 

まあ言うて一昨年のW杯は、全く興味無いフリをしつつも日本戦はほぼほぼしっかり観るという大ミーハーをブチかましましたが。笑 再来年の2022年カタールW杯までに仕上げていきたいと思っている。勉強をして詳しくなって臨みたい。

 

今現在はコロナの影響で、どの海外リーグもシーズンが行われていない。早くこの状態が緩和されて、無事に再開催されていくことを祈っている。

 

私はもはやスペイン料理が食べたくなっている。そのくらいの熱量(?)である。コロナが収束したら、メッシのユニフォームを着てパエリアが食べたい。見た目から入るスタイルである。そんな日を夢見ているのである。

 

 

ついでに、私が一番得意(自称)な球技は、

卓球だ…!(コリャ一本取られたね…!)

 

 

ではまた!

 

Cigarette's Blues-シガレッツ・ブルース

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かく言う自分も、昨今の新型コロナウイルスの猛威に戦々恐々とする1人の人間である。ここ数ヶ月に渡って我々の生活、そして命を脅かし続けていることは言うまでもない。

 

まあ自分も今日までにおける政府の対応やら、未だ危機感の薄い人々やらにああだのこうだの吐き散らしたい欲望はありつつも、現状このブログのおちゃらけたテイストにはあまり合っていないので、書かない。時としてはいち社会人いち人間として、ポリティカルな内容への言及も必要になるかもしれませんが。「考える事をやめないでいよう」という言葉だけ残させてください。大事ですからね、社会にとっても、他人にとっても。

ともあれここでは楽しくやりましょう。どうかお付き合いよろしくお願いいたします。

 

私アッチも、仕事と食料品の買い物以外は殆ど家から出ない、自粛生活を送っております。言うても、今年の2月入って以降はもう地元埼玉からは(意識的に)出ておりません。

 

私は職種柄(会社柄?)現状まだ特殊な変化なく仕事をしているのですが、普段は電車通勤のところ晴れた日は自転車で職場まで通ってみたりして、“3密”を上手く避けながら、サイクリングさながら気分転換を楽しむ生活です。

とにかく今は我慢ですからね。頑張って乗り越えていきましょう。

 

 

そんなコロナウイルスの影響が世界各地や我々の身の回りで出始めている中、私の生活にもとある影響が出てきているのである。

 

煙草を吸える場所が無いのである。軒並み、職場の喫煙室は封鎖状態である。

 

 

実は私アッチ(30)は喫煙者である。いや、“あった”とでも言おうか…。

 

 

元々は大の嫌煙家とも言える部類だった自身であったが、26歳の時に心の奥底に眠る冒険心が、ふと煙草への道へと誘った。吸い始めはその煙たさや匂いに苦戦を強いられたものの、慣れてしまってからは生活に無くてはならない存在に。

 

とは言ってもライトスモーカーの方だとは自負している。2日で1箱吸い終えるくらいのペースかつ、煙草のタールは1mg(メビウスのイエローオプションを愛吸)。

 

じゃあなんで吸っているんだ、という話になってきてしまうが、やはり煙草があると無いとで違うんですよね。確かに気を紛らわしてくれるような、ストレス解消の一端を担う効果もとい成分がソイツにはあると思うし、1人でも、また友人と一緒にでも煙草を吸ってチルアウトする時間が好きだ。大人の時間やなぁ、思う。自分に箔がついた気もする。とは言え当然体には害が有りますが。

 

ただ、ここ最近は吸える場所が無く、仕事の日も休憩中に吸うことが無くなったので、それに伴い日に日に1日の喫煙本数が減少していったのである。

 

1週間程前の事である。自宅で起き抜けに煙草を吸ったその時、ニコクラ(ニコチンで頭がクラクラとする現象)が酷く、倒れるんじゃないかというレベルであった。血の気が引いて貧血寸前かのような状態。非常に冷や冷やとして、恐かったのだ。吸わない生活に慣れてしまい、体が受け付けなくなったのだろうか。それとも神のお告げか…。

 

 

この瞬間自分は決意したのである。

そうだ、もう煙草を辞めよう、と。

 

 

 

と言うわけで、現在5日目である。当時残っていた最後の1箱を吸い終えて以降購入自体を止め、全く吸っていない生活を送っております。

 

ただ、自分に関しては先述のように元々の喫煙本数が少ないことと、喫煙期間が短かったことが、このような状態に成れる要因だと思います。何故敢えてこのように言うのか。それはつまり、やはり吸いたいと思うからです。煙草美味しいんですよ。正直この記事書くのも中々にしんどい。自ら吸いたさを助長しているのである。あれば吸ってますから、恐らく。

 

それにしても、体質の変化(?)が呼び寄せた、全く予想していなかった突然の事態である。よって煙草への愛情が消えたわけではない。

今この状態は、“距離を置いている”とでも言おうか。本当は愛しているオマエだけれども、一緒にいるとオレはダメになってしまうのだと…。哀愁すらあるのである。まさにブルースだ。叙情詩である。切ない、とも言える。

 

 

まああれですね。友人との飲みの席や、煙草があった方が素敵な場面ではまたソイツの力を借りると思いますね。ただ、自分で能動的に率先して吸うことは辞めにします。と言うか、辞めることを頑張ってみます。

 

世間的にもマジで吸える場所無くなっていますからね、この4月以降。コロナ関係なく。まあ丁度良いのでしょう。己の健康のため。何しろ、仮にコロナにかかってしまったとしても、煙草吸っていないことは良いことですからね。

 

 

というわけで、どうか当ブログが少しでも皆様方の自粛生活の気晴らしになれば!ではまた!

 

 

“変態”って、何なのさ

ニガミ17才(というロックバンド)の岩下優介(Vo.&Gt.)と平沢あくび(Syn.)が深夜のテレビ番組に出演しているのをたまたま観た。まず始めに言うが、私はこのバンドへの興味は殆ど無い。所詮「ただし、BGM」の一発屋だと思っている。今回このバンドを紹介するために名前を出しているわけではないので、気になった読者の皆様は各々でお調べいただけると有難い。

(愛を込めていればこのようにちゃんと書きます)

 

俗に言う、“一般的な感覚とは多少ズレた奇怪”な音楽性のバンドである。簡単に言うと“変態”さをウリにしている、と言ったところだろうか。直球ではない、って感じかね。

 

世間的な知名度はまだ並以下と言ったところでしょう(それが「悪い」ことではないことは説明無用でよろしく)。まあ勿論、ロックファンや音楽好きな方々は当然チェックされていることでしょうが。ただ、ここのところは平沢あくびの独特な恋愛観や、そのルックスを全面に出して、彼女が音楽とは関係ないテレビ番組に出演しているのを見かける。そんなんでテレビに出る前にまずバンドで売れろよ、と率直に思う。売れるためには“卵が先か、鶏が先か”的な話でもあると思うのだが、貴方達の場合なら音楽が先だろう、と。しかも平沢は最近はちょっと太ってきているようにも感じる。そのやり方で名を挙げるなら、せめて己の美は保てよ、と言いたい(ルックスの好みは人それぞれだろうが)。

 

その番組で、MCが岩下優介に対してこう質問をしていた。「“変態”とはなんですか?」と。そして岩下はこう答え始める。「僕はこれまでずっと変態をやってきたのですが…云々…」

そこまでしっかりと耳を傾けていたわけではないので、質問への回答についてはぼんやりとしか覚えていないが、その語り出しに私は「あぁ、所詮そんなもんなのね」とかなり残念に感じたのである。岩下は「ジャズがー、オシャレがー」とどうたらこうたら話していたが、一向に私には響かなかったのである。

 

 

 

さて、“変態”とは何だろうか。

 

変態それは「(一般とは)違う・異なる・特殊」という意味であることには間違えない。

例えば今回の件で言うと、音楽性が“変態”であったり、他は性的趣向が“変態”であったり、感覚が“変態”、行動が“変態”、思考が“変態”と、様々な“変態”が数多く存在する。そりゃそうだと。変態もといHENTAIは世の中に溢れているのである。

 

では、何故ニガミ17才岩下の“変態”への解釈が私に響かなかったのか。

 

いやぁ、“変態”って自分で言うものじゃなくない?えぇ?

 

 

“変態”なこと(今回で言うと音楽または音楽性)をやっている自覚があるうちは、“変態”じゃないと思うんですよね。結局は周りからどう見られるかで決まるものだと思うんですよ。

 

「変態でしょー変態なことやってるでしょー」の感覚で、あたかもウケを狙っているようでは甘いかなと。ぶっちゃけイタいわ。周りから「うわ、これ変態だわ」となるのが本当の評価よね。価値観は人それぞれ違いますから。そして、それを天然で、自然発生的に行う者こそが真の“変態”なのではないかと。己を俯瞰で見たときに、説明が可能であるほどに冷静に遂行して、それが周りから“変態”と受け入れられてこそ初めて“変態”と言えるのではないかと。

 

えー、書いていて訳分からなくなっております。笑 

 

具体例を挙げていきます。私はZAZEN BOYSが大好きである。愛している。令和になってから既に2回ライブ観ている。彼らの音楽は変態そのものだ。面倒だから説明はせん!笑 変態変態変態!堪らん!と、私はなる。

しかし、彼らの“極極(キワキワ)”な音楽性に裏打ちされるのは卓越したテクニックと、複雑な演奏をあたかも自然にこなす冷静さ。向井秀徳の凛とした立ち振る舞いと、和の精神ならぬ礼儀をわきまえたステージング。彼らはいたってナチュラなのである。そこがカッコ良いのであって、シビれて、堪らないのだ。唯一無二なのだ。そこに私は真の“変態”を見る。彼らは自らを「変態やってます」なんて語らない。これなのだ。

 

少し論点をズラすが、私は俗に言うサブカル厨が好きではない。彼らは自分に浸っているからだ。“人とは違う”という主観を盾にして、己を特別だと、ズレていると思ってならない。それが私にしたら実に面白くないのだ。“人とは違う”ことを考えてる時点で、それ造っているよと。成り切れてないですね、と思う。まぁ妄想ですが。

 

また、惡の華という漫画がある。これも説明面倒なのでしないが、やたらと“変態”を取り扱う内容のストーリーとしては、その捉え方には非常に辟易とした。全裸の主人公に対して冷静なヒロインなんて、現実世界じゃおらんでしょ。途中で読むのやめました。面白くなかったから。“変態”じゃないの、それ。変態の押し売り。何がしたいのかと思った。

 

やたらと“変態”というワードが横行するエンターテイメントの世界だとは感じるが、本来の“変態”というものは醜く、気持ちが悪く、不安なものである。違和感または嫌悪感でしかないのだ。それを忘れてはならない。ただ、“変態”に共鳴や感動をする人もいるわけで、その合致によってそこにグルーヴが生まれ、新たな文化が作られるのである。それは時として美しく綺麗なのである。

簡単に“変態”という言葉を用いてほしくはない。“普通”を知らなければ変態なことは出来ません。その“普通”こそが実に深い。本当にそれは面白いですか?と。知恵を振り絞り、自らを客観視し、冷静に判断し、取捨選択し、生み出されるもの。それが“変態”なものである。それをやっている人は、自らを“変態”とは言わないだろう。それが通常運転なので。 

 

長々と話しましたが、伝わったでしょうか?笑 

「自分変態です!」はダサいって!それがエンターテイメントであるならば尚更!

そんなことを感じた私アッチでした!ではまた!