アッチの街の片隅から愛を込めて

迸るほどの愛を込めて、濃厚かつ丁寧に音楽その他色々を語ります。

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心底どうでも良い密かなマイブーム

ペットボトルのお茶やジュースをよく買って飲む。そして飲み終えた後のペットボトルは当然後処理をする。ラベルを剥がして捨てて、ペットボトルは洗ってリサイクル用に分別する。至って普通の行為であるが、今までの私は特に何も考えずにそれを行っていたと思う。というのも、空のペットボトルがすぐにポリ袋に溜まってしまうので、置いておくスペースだったり捨てる回数が増えたりと、そういう細やかなところが地味に悩ましい。ただ、これまでその問題を放置していたのである。しかし、ここにきて最近の私は進化したのである。

 

それが掲題にもあるマイブームというものなのだが、「ペットボトルをくっちゃくちゃに潰す」ブームが訪れており、新たな世界が見えてきたのだ。

今まではおざなりにペットボトルを洗っては軽く潰してポリ袋に纏めていたが、“いや待てよ、ちゃんと潰してみよう”とふと思ったのである。

最近のペットボトルは環境にも非常に配慮され、かなり柔らかくなっている。1本あたりの素材の使用量を減らすことにより、以前よりも資源を大切にしているのだ。そして何を言おう、昔よりも潰しやすくなっているのだ。それが何をもたらしてくれるのかと言うと、くっちゃくちゃに潰せることでペットボトルの容積が減り、余分にポリ袋を圧迫しなくなる。より多くの本数が一度に捨てられるのだ。今更な話であるが。

 

ただ、この昨今の柔らかペットボトルを潰す作業がまあ楽しいのだ。「めっちゃ潰れるやん」と思いながら、力の限りを込めて潰す。これが地味にストレス発散にもなるし、上記の通り一度に沢山捨てられるようになるから、イイ。

特に某飲料水い○はすのペットボトルなんて凄い。ミッチミチにくっちゃくちゃにできる。雑巾かよ、と思う。あれを潰すのは本当に気持ち良い。病み付きにすらなる。

そんなマイブームが訪れている。小さくてクソ程にどうでも良いことだが、楽しい。

 

日々それとなく過ぎていくが、少しの考えの変化でどうにでも楽しくなるんだな、と思った最近の自分である。皆さんも是非ペットボトルくっちゃくちゃライフを。

 

 

ではまた!

 

 

 

思い違いは空のかなた


仕事の昼休憩に職場近くの中華料理店の弁当を買って食べることが多々ある。値段もさることながら、ボリュームも十分。日替わりで様々なおかずが入っており、本場の中華料理人が日本人向けのテイストに仕上げた料理は辛みや甘み等が奥深く存在し、とても美味しく、日々私の舌を喜ばせてくれるのだ。

ある日、おかずの一つに厚焼き卵の一切れ分みたいな見た目の物が入っていた。それをぱくり。すると、それは卵焼きではなく謎のパン?のようなものだった。言うなれば、肉まんあんまんの生地の、生地だけを凝縮したようなものであった。恐らくだがデザート的な立ち位置なのだろう。しかし私はとても呆気に取られた。完全に厚焼き卵だと思っていたからだ。本場の中華料理にはこんなものも存在するのか、するんだろうなぁとよくわからない気持ちになった次第である。

 

このように、自分の勝手な思い込みが実は本質とは違うということはたまにあるものだ。人間はいかに先入観で生きているのだと分かる。

 

これもつい数日前の昼休憩の出来事であるが、食事を終えて一服していると急な腹痛がやってきた。しかも中々の激痛。むむっ、これは耐え難い。トイレに行かねば、と。

このような状況に陥った場合、トイレまでの距離にもよるが、一旦放屁を行い腹に溜まったガスを抜き痛みを和らげるという、熟練の技がある。我が人生これまで幾度となくこういったケースに遭遇しては、何度もこの技で窮地を潜り抜けてきた。今回も行くぞ、と。

 

そしてゆっくりと放屁をする。これで少しは楽になるだろう…と。タイミングを見計らい、スゥ……。ほーら、今回も余裕だったな…。

 

 

しかし、どうやら様子がおかしい。なにやら気色悪い違和感があるぞ。

あれ、なんかケツが冷てえぞ?

これ、やったな。

やっちまったなぁ

オォォイ!

 

 

お察しの通りだ。私が屁だと思い込んで放出したそれは屁ではなかった。完成系の、中でも特に柔らかいそれであった。

 

恐らく“大人”になってからは初だろうか。

高校生の時にウイルス性胃腸炎を患った時は、あまりのお腹のユルユルさに漏れ出てしまうことがあった。病気以外で言うと、小学6年生の頃に2日連続で下校中に漏らしたことがある。しかし、記憶にあるのはそのくらいだ。

 

こうなると話は変わってくる。焦りを感じた私は、お尻が濡れている気持ち悪さとこれ以上被害を広げたくないという考えであまり素早くは歩くことが出来なかったが、一目散にトイレに向かった。

 

脱ぎ履きするために広いスペースが欲しかった。あまりよろしくはなかったが、多目的トイレを使うことにした。

すぐさまパンツを確認する。

しっかりと“彼”(Gerry Ben氏)が付いている。なんてことだ、と。クールポコさながらのやっちまったなぁ感である。

 

なんとか冷静さを取り戻せと自分に言い聞かせ、便座に腰掛け腹の中の全てを出し切る。なんとかスッキリとする。そして私は迷った挙句、脱いだパンツをトイレのゴミ箱に捨てた…。

(脳内BGM「aiko/カブトムシ」

♪生涯〜忘れる〜ことはないでしょう〜♪)

 

ズボンまで染み入っていなかったのが不幸中の幸いであった。

その後、終日ノーパンで過ごし事なきを得た…。

 

これもまた経験だろう、と私は思う。確実に私は自分を過信していた。思い込みをしていたのだ。弘法も筆の誤りとはまさにこのことではあるが、私はあの瞬間屁をこくというギャンブルをすべきではなかったのだ。

学び、である。今後はより一層気をつけていかねばならない。そう、同じ過ちを繰り返さないために。

 

 

しかしまぁ、

参ったネどうも…

(恥ずかしいよ!)

 

 

ではまた!

悲しい

www.atsudays.work

 

今とは文体が違うが、過去に私なりの愛を込めて書いたものである。とにかく好きだし、思い入れは非常に強い。

 

正直今もまだ受け入れられていない。三浦委員長はずっとこの先も飄々と生きて、音楽を続けてくれると思っていた。

 

ライブを観に行くほど好きなアーティストが亡くなってしまう経験は初めてかもしれない。こんなにも虚しくて寂しいのかと思う。

 

病気を隠しながら、そんな素ぶり一切見せず活動していた委員長は凄い。全然知らなかったし、全く分からなかったから。

 

もうこんなことで年齢を知りたくなかった…。

病気、お前ふざけんな。

 

 

三浦委員長のご冥福をお祈りいたします。

これからもあくまでも普通に、委員長の作った音楽を聴いていきます。

 

 

記録は塗り替えられた

“美味いもの”に目がない私であるが、都度都度某グルメ情報アプリを開いては近所に良いお店がないか調べている。自分の嗜好としてはラーメンやカレーがメインだが、評価が高くて自分の好みっぽい雰囲気が出ていると物凄く行ってみたくなるのだ。なんらかの用事があって出掛けることがあれば、その土地土地で食べられそうな美味いものがないか事前にリサーチするのが決まりだ。そんなプチグルメ気取りをカマしている吾輩である。とにかく美味しいものに出会いたいし、食べたい。しかし、いくら星の数が多かろうとも、食べてみないと自分自身が下す評価なんて分からない。それこそがロマンであり面白いところであり、冒険だと思っている。そしてチャレンジした結果お気に入りのお店に出会えれば、それは御の字である。

 

 

そんな自称“プチグルメ”の私であるが、ここ最近お気に入りのお店を発見したのである。と言ってももう一年以上経つのかもしれない。

 

店名等は伏せるが、隣町の某ラーメン屋である。家系ラーメン、というやつである。ご飯が進む濃いめの味の美味いやつだ。

とにかくここのラーメンは全てにおいてクオリティが高すぎるのだ。スープ・麺・チャーシュー・味玉全部美味い。特にチャーシューはどこか香ばしくて柔らかくて美味い。しかもデカい。卓上の刻み漬けニンニクがこれまた美味い。そしてご飯は無料。大食いの自分は毎回大盛りで2杯食べる。ラーメンとの相性は抜群だ。かっ喰らう、という表現が合っている。それはもう夢中にいただく。とにかく美味い。

そして極め付けは店員さんの愛想も非常に良い。このお店に関しては言うことがない。100点。なのでほぼ毎週隣街からわざわざ電車に乗って通っている。完全に虜である。

 

 

自宅から歩いて数分の、これまた美味いラーメン屋がある。もう10年以上そのお店が自分の中の“一位”であった。それはもう確固たる不動の地位であった。

 

しかし、それはいよいよ塗り替えられたのである。新一位が誕生してしまったのである。

これは自分の人生においても非常にショッキングかつ、グレイトな出来事なのである。まさかそんなことがあるのか、と。そして、感動したのである。

 

何が言いたかったのかというと、人生何が起こるか分からない、大番狂わせもあるということだ。

自分はラーメンからそんなことを学んだのだ。

 

 

 

ありがとうございました。(終わりかよ!)

 

ではまた!

 

 

インフェルノ


それは突然のニュースだった。

地元で20年以上も続いていた某温泉施設が1月31日をもって閉館するとのことだった。

 

どういった事情かは全く分からない。経営難なのか、施設の老朽化なのか、はたまた別の理由か。とは言え、自分の街のシンボルの一つとして存在する場所があまりにも急に終わりを迎えるということに衝撃を受けた。

 

自分は小学生の頃からその施設にお世話になっていた。自宅からもかなり近い距離なので度々入浴をさせていただいたものである。

 

最近では「サウナブーム」なんてものがあり、スパや健康ランド的な施設が盛り上がりを見せているが、ここの施設のお風呂はずばり天然温泉。地中から沸々と湧き上がってくる効能たっぷりなそれなのである。遠い記憶ではあるが、20年くらい前に「温泉が掘れたぞ!!」と局所的に話題になっていた覚えがある。ワクワクすることが起きたなと、子どもながらに嬉しくなった記憶がある。温泉がある地元、というのが誇らしくも感じられた。

 

思い出は多い。友と湯に浸かりあれこれと語り合ったこともある。仕事終わりに行って日頃の溜まった疲れを癒したこともある。近年では家の給湯器が突如壊れてしまい、その時も急遽助けてもらったのである。

 

私は地元を愛している。実家時代〜一人暮らしの今にかけて20年以上離れることなく同じ街に住んでいるが、自分の生活圏内に当たり前のように在った場所だ。それが無くなるというのだから、非常に寂しい。

 

 

1月31日最終営業日、仕事の後に向かうことにした。最後に入らなければなんだか後悔しそうだなと思ったのと、今までお世話になってきた義理を果たすためでもあった。ありがとうね、と。

 

22時、閉館1時間前に入館。まず驚いたのは普段では見慣れないその人の多さであった。正直に言うがこんなに人が多いのはかつて見たことがない。恐らく皆同じことを考えて、同じ思いを抱えて此処に来ているのだろう。最後の湯と、この空間の雰囲気を心身に刻もうとしているのだ。それが感じられてどこか嬉しかった。

 

大浴場に行きふと見ると、サウナには順番待ちの列ができていた。少し異様な光景だ。全体的に人がひしめき合っていた。野郎の群れで賑やかであった。今日で閉館という、特別な日の雰囲気をこれでもかと感じさせられる。そしてそれこそがこの場所が終わるという「実感」に直結していることは言うまでもない。

 

「あー、本当に終わるんだな」と切なくなりながら自分もいつものように過ごす。いつものように、大して勢いの無いシャワーを使い全身を洗う。そしていつものように先ず露天風呂に向かう。まあしかし人が多い。「すいません」と人の間をすり抜け、いざ入浴する。はぁ、とため息が溢れ出る。心地が良い。堪らない。お風呂は素晴らしい。とりわけ大きい風呂は。

 

この露天風呂から見える夜空とスーパーの看板が好きだった。全くもって大層な景色ではないが、自分にとっては丁度良かった。「生活の中にある至福」とはこのことを言うのだろうと。

露天風呂のテレビではKing & Princeの永瀬廉くんのドラマが映されていた。彼は良い演技をしていた。話の内容は分からないが、なんか沁みた。しかしキンプリも本当に勿体無いよなぁ、と。突然当たり前のものが終わってしまうのはとても寂しいのである。

 

最後のジェットバスも堪能した。背中に受ける強めの水力が心地良い。並びの列が途切れた頃、ちゃっかりサウナにも入った。特別熱さが得意なわけではないので短めに。だが、少しだけととのった。

 

時間もそこまでなかったので、ひとしきり全体を堪能し大浴場を後にした。やはり来て良かったと思った。「良い湯」と「良い空間」は確かにそこに存在していた。最後に改めてそう感じた。

 

 

やれ感傷である。永遠というものはこうも存在しないものだ。当たり前にあるものはふとしたタイミングでスッと消えてしまうことがある。アニメのポケモンだって、サトシが引退してしまうことに心底精神的なダメージを受けているのだ。サトシはともかく、ピカチュウロケット団はどうなっちまうんだと。あいつらいつまでも居るんじゃなかったのかよ、と。本当人生って寂しいもんだよなと思ってしまう。

 

この素晴らしい温泉施設はどうなってしまうのだろう。一つの歴史は途絶えてしまったが、綺麗さっぱり丸々無くしてしまうのは勿体無いと思う。どうか別の会社が引き継いでまた新たな形で続いてくれないかと切に思う。

 

 

サンキューフォーエバー、グッバイフォーエバー。

素敵な未来がこの先にあれば良いなと思う、何事も。

 

ではまた!