“ギャップ萌え”なる言葉が存在する。この言葉が果たしていつ頃からこの世に誕生し、世間に浸透したのかは知らないが、今や当然のように人々(主に若い女性たちのイメージ)の会話の中に出没し、また誰彼の人間性を知り得るための感覚そして現象の一種として居座っているものだと感じる。
私はこの言葉が好きではない。懐の問題だと感じているからだ。“ギャップ”が生じ、萌えを感じられるということは、その特定の人に対する勝手な先入観が存在している状態である、もしくは単純にその人に関して無知であることが大きな条件であり、つまりギャップ萌えとは「勝手に想像して勝手に感動している」現象であると私は思っているからだ。
または単純に、ギャップ如きで萌えるほど私の心は忙しなくないからだ。勿論、人に関して思いもよらなかった性格の部分や、趣味趣向が発覚した時に、感動を覚えたり感銘を受けることはあるが、それは決して“萌え”ではない。悶え興奮し、はたまた恋愛感情さえ生まれてしまいそうな脳内お花畑なものではない。素直な感動である。わざわざ萌えてもいられないのである。
という、今回の主題への前提である。
私にとって許せない、もしくはそれを許すためには非常に寛大で豊かな心を持つ必要があるものがある。それは何か。
ヤンキーが手帳型スマホケースを使うこと、である。
こんなにも虫唾が走ることがあるだろうか?このことについて具体的に掘り砕いていく。
数多く存在するスマホケースの中でも、手帳型ほど機能性と防御力の高さに富んでいるものは無いと言えよう。蓋となる表紙を閉じることによって、たとえスマホの画面側を下にダイレクトに地面に落としたとしても液晶が割れることは殆ど無いと言える。また、大抵の手帳型ケースの蓋の裏面には、カードを複数枚収納できるポケットが存在し、Suica等の定期券や免許証、社員証等をそこに仕舞うことで、それらの手軽な利用と出し入れを可能とする。スマートフォンという現代における我々にとっての身近な存在を有効に活用した方法である。
そんな利便性に優れた手帳型スマホケースを使うヤンキーが私は許せない。
ヤンキーとは至って攻撃的であり、どちらかと言えば反社会的である。どういった経緯でその生き方に至ったのかは分からないが、社会で真面目に規律を守って生活する人々にとっては迷惑極まりない存在であろう。
そのヤンキー、もしくはヤンキー風の男が手帳型スマホケースを使い、己のスマホをガチガチに保護し、かつ計画性に溢れた行動をすることが理に適っておらず、許せないのだ。
守るなよ、と言いたい。何故守る?ヤンキーは破滅的に生きることが世の常であり、そんな彼らが自分のスマホの液晶が割れることを恐れることがあってはならないのだ。
そもそもヤンキーは頭の悪そうなスカルマークのデザインのものや、派手めな色に染め上げられたプラスチック製のケースを使うことが関の山である。お洒落なデザインで丁寧に作られた革製の手帳型スマホケースを使うことなどはあってはならない。柄ではないのだ。もしくは潔くノーケース。故に液晶に関しては過去2,3度の落下によってバキバキに割れているくらいが丁度良いのだ。保護フィルムに関しては甘んじて着用を許可するものの、完全に封印されて取り出せない気泡が1,2個程度画面上に無くてはならない。
またSuicaや免許証をケースに入れて便利に携帯してはならないのだ。合理的なヤンキーなど存在してはならない。如何なる時でも刹那的に生きる、そんなヤンキーであっていただきたいのだ。
ギャップ萌えという言葉に関して多少の嫌悪感を抱き、やれスルーを決め込む私ではあるが、この“ギャップ萎え”に関しては酷くダメージを受けてしまうのである。痛みを超えて苛立ちを感じてしまう。辛いのだ。それであるならば、せめて萌えていたい。
私は言いたい。「手帳型スマホケースを使いたいのであれば、真っ直ぐな人の道を歩め」と。
世の手帳型スマホケースユーザーには、それに似合う生き方を心掛けていただきたい。
仮想敵シリーズ来ましたね。笑 長々と何をほざいているのか、自分でも困っておりますが。
とは言えですね、結構本気で許せないんですよこれ!笑 なので世の中のヤンキー諸君!私を萎えさせんといてな!
でも本当に一番許せないのは、
人の不幸をネタにして甘い蜜吸おうとしている底辺YouTuberなんだよなぁ…。
本当に腹ただしい。人間の屑め。
っていう本気の怒りを最後に。
ではまた!