アッチの街の片隅から愛を込めて

迸るほどの愛を込めて、濃厚かつ丁寧に音楽その他色々を語ります。

【スポンサーリンク】

夏こそ読書だ!2020 恩田陸「まひるの月を追いかけて」

まひるの月を追いかけて (文春文庫)

 

“読書の秋”という、我々日本人に非常に馴染みの深い粋な言葉があるが、私にしてみれば“読書の夏”の方がしっくりくるのである。例えば誰もが幼い頃、夏休みの宿題の読書感想文を書くためにわざわざ課題図書を読んだ経験はないだろうか。突き刺さる真夏の日差しから逃れるために、近所の図書館を避暑地にしたことはないだろうか。そのような場面を思い出すだけでもエモーショナルな気持ちになれる、夏の記憶の一片である。

 

そもそも当時の私はそこまで活発な少年ではなかったので、夏休みと言えば冷房の効いた自宅か図書館で一人大人しく読書を愉しむのが関の山であった。むしろそれを望んでいた側面もある。そもそも自分は一人の時間が好きである。そこに綴られた文章に脳内による思考と想像を巡らせ、作品の世界に浸る時間は、私にとって至高であり、今もなお上位ランクの一人行動だと感じている。今思えば、少年だったあの頃の読書の時間はこの上ない贅沢だったなと思う。冷房の効いた部屋で時間を気にせず読書。読書とは贅沢な“活動”なのである。

そんなこともあり、「夏こそ読書だ!」ということで、いくらかの本について(特に夏場は注力的に)語っていきたい。尚、読書は一年中いつでも良いものだ。

 

 

 

今回ご紹介する作品は恩田陸まひるの月を追いかけて」である。

 

 

恩田陸は日本の女流作家である。代表作は六番目の小夜子」「夜のピクニック」「ネバーランド等が挙げられる。そして、2017年に直木賞本屋大賞を受賞した「蜂蜜と遠雷」によって、更に日本を代表する作家の一人として確固たる地位を確立したことは言うまでもないだろう。(失敬、自分は実はまだ「蜂蜜と遠雷」は読めていないのである。必ず読む。)

 

ノスタルジアの魔術師”という異名を持ち、どこか懐かしく、そしてもどかしく、まるでセピア色の情景を思い浮かばせるような郷愁漂わせる描写が恩田陸作品の魅力の一つである。私は高校生の頃に「夜のピクニック」や「図書室の海」といった作品に触れ、そこから恩田陸の虜となる。冴えない高校生活を送っていた私には、恩田陸の文章が持つ淡く幻想的な雰囲気がどこか心地良く、それは私を美しい仮想と想像の世界へ誘ってくれたのだ。また、その当時メジャーデビューし、よく聴いていたロックバンドBase Ball Bear(めっちゃ好きです)のノスタルジック溢れる詞世界とも相まって、高校時代は特に「文学」といったものが自分の中で重要で魅力的なものとなった。ズブズブとその世界に身を埋めることとなった。当時の私にとって高校の図書室はまさに優雅な海であった。

 

 

ノスタルジアの魔術師”の異名故に、学生の登場人物が主軸となる作品がパブリックイメージではあるが、実際はファンタジーにミステリー、ホラーテイストに恋愛小説等、幅の広い世界観の書き分けができるオールジャンル作家である。そのバラエティの多様さによって、どの作品を読んでもまるで飽きることなく新鮮に楽しめるのである。

 

恩田陸当人も大の読書家ということもあり、いかにも優等生的な“巧い”作家の印象を持たれると思われるが、実験的かつ冒険的な作品もいくつか存在し、物語が作中の登場人物同士の質問と回答のみで展開されていく「Q&A」や、東京駅を舞台に、互いに見知らぬ二十七人と一匹の登場人物が運命の歯車によって一つの終着点へひた走っていく「ドミノ」と、小説というメディアに新たな刺激をもたらしてくれるのも大きな魅力の一つであろう。

 

 

恩田陸は私の中では三本指に入る、とても大好きな作家だ。しかし、あくまでも個人的なところではあるが、作品によって登場人物への感情移入がし難いことが時として存在する。途中で読み止めた作品もある。まあそんなことも中にはね…。

 

 

 

 

そして本題の「まひるの月を追いかけて」であるが、これは特に突出して取り上げられるような作品(またその知名度)ではないとは思う。しかし、私はこの作品の世界観が非常にツボであり、何度も読み直している。

 

奈良を舞台とした、ある種の特殊なヒューマンドラマである。最初に言うと、決してこれは垢抜けたストーリーでは無い。ぶっちゃけた話、クライマックスに関しても読む人によっては脳内にクエスチョンマークが浮かぶだろう。かなり評価が分かれる作品であろう。ただ、私にとってはこの全体的に湿り気のある独特の雰囲気が堪らないのである。

 

これは恩田陸の得意技とも言えるが、登場人物の二名は異母兄妹である。この設定が良い味を出してくるのである。故に物語序盤の不透明さと、徐々に真実が明かされていく展開が面白く、入り込んでしまうのである。決して華があり、特別な何かがある登場人物では無いのだが、彼らについて“知りたくなる”不思議な引力がそこにはあるのである。

 

そして作品を通して、我々日本人にとって共通に大切とするマインドが存在するであろう、古き良き奈良の情景が次々と脳内で再現されていくのだ。これがまた堪らないのである。とは言え、私はそこまで歴史に詳しくは無いし、とりわけ特別な思い入れが奈良にあるわけでは無い。しかし、その文章は引き込まれるものがある。丁寧な描写。魔術師・恩田陸の手腕であろう。奈良に行きたくなってしまうのだ。どこか危うげで鬱蒼とした、ミステリアスな雰囲気を味わいたくなるのだ。

 

そもそもまずタイトルが良いですよね。真昼の月。気にして見上げる人はどれだけいるだろうか。そんなマイノリティさを誘うところが、作品の浮世離れした世界観ともマッチしているのである。

 

 

とにかく、好きで堪らない一書である。雰囲気重視ではあるが、確実に読書における恍惚は味わえることであろう。

 

 

ではまた!

 

 

まひるの月を追いかけて (文春文庫)

まひるの月を追いかけて (文春文庫)

  • 作者:恩田 陸
  • 発売日: 2007/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

その波形が表すものは

f:id:atsushidays:20200628222332p:plain

 

かねてより「自分は睡眠中に物凄くイビキを掻いているのではないのか説」が囁かれているのである。特にここ数年その説の真実味が増してきている。とは言え、自分は一人暮らしをしているので、たとえ実際にイビキを掻き散らかして寝ていたとしても、それを誰かが見聞きすることはなく、教えてもらうこともできない。しかし何故だか体感的に“嗚呼、イビキを掻いていたんだろうなァ”と思ってしまうのである。

 

 

と言うのは、つい数日前に日頃の疲労の蓄積のせいか、11時間も睡眠を取ってしまったのである。流石に寝過ぎたと思ったが、“まあ仕方無えよな”とその時ばかりは自分に甘くしてあげることにしたのだ。しかし、どうも睡眠の充実感が低い。寝ている合間の呼吸が覚束なかった記憶がある。呼吸のヌケ感が悪い。寝苦しさが合いまった感じがしていたのだ。実際そんなことがこれまでにもあったわけだが、今回の一件がより先述の説を決定的に立証させるものなのではないかと感じたのだ。

 

 

職場の同僚に自らの「イビキ説」について話し、“いっそ寝ている間の自分を動画撮影してみたいのよね”なんて言っていたら、その同僚がこんなことを教えてくれたのである。

「今はイビキを録音してくれるアプリがあるんですよ」と。

ほぅ。非常に耳寄りな情報である。良いことを知った。便利な時代だ。早速該当のアプリをスマートフォンにインストールしたのである。

 

 

早速その日の晩、アプリの効果を試すことにした。アプリを起動状態にしたまま就寝する。そしてもし睡眠中にイビキを掻いたのであれば、その音を自動的に録音してくれるということだ。

 

イビキに関しては、本当に疲れてしまった時にしか掻かないものだと思っている。これもあくまで体感的な判断であるが、毎日毎日イビキなんて掻いていられないのである。仮にそうであれば流石に危ないぞ、と。真剣に何かしらの対策を講じなければならない。その日はそこまで疲れていなかった。故に何も録音されず朝を迎えることを願った。

 

 

 

翌朝、目を覚ますとともにすぐさまアプリを確認する。するとどうだ、早朝の時間にログが残っている。規則的に配列された波形がそこにはあった。音は波形で表される。

やってしまったか。マジですか、と。中々にショックを受けたのである。

 

 

そして問題はそのイビキの音色である。ガーガー五月蠅くイビキを掻いていたのであれば、たまったもんじゃない。

 

恐る恐る録音された波形を再生する。

 

 

 

バゥッ!バゥッ!バゥッ!バゥッ!

 

 

 

 

外の犬の鳴き声であった。

 

 

 

 

 

 

検証は続く!ではまた!

 

 

鶴の最新アルバム「普通」が最高に素晴らしい作品であることについて

普通

2020年3月4日リリースの鶴の最新アルバム「普通」のCDを購入したのである。このご時世でフィジカルCDを買うことに、私の鶴というバンドへの熱量を感じていただければ幸いである!

 

 

“誰もが好きになる音楽”こそが鶴!

埼玉県鶴ヶ島市出身のスリーピースバンド、鶴。2003年に結成し、2008年ワーナーミュージックよりメジャーデビュー。2013年より自らのレーベル「Soul Mate Record」を発足し、以降音源リリースにライブと、今日まで精力的に活動を続ける。

 

2019年10月には地元鶴ヶ島市鶴ヶ島運動公園にてバンドの念願となる初の主催音楽フェス「鶴フェス」を開催。11,000人の来場者を記録し大成功を収める。

 

 

中学校時代の同級生3人からなる、この鶴であるが、その長年の連帯感と信頼から生まれる音楽は、非常にソウルフルでパワフル、そしてハートフルである。そこには“いつまでも良い音楽を届ける”という図太い芯が存在し、彼らの音楽観や人間性もとい人柄が色濃く表現されている。彼らの音楽はとにかくアツいのだ。そしてそれは火傷しそうな熱さとホットココアのようなほっこりとする熱さ、その両方であると言えよう。

 

スリーピース編成、そして鶴ならではの“メンバーの顔がハッキリと浮かぶ”歌とサウンドが癖になるのである。そこには安心感も存在する。とにかく骨太で強靭なバンドサウンドであり、各人のテクニックも秀逸で安定感抜群なのである。故に彼らは“THE ライブバンド”なのである。2013年の自主レーベル発足以降、47都道府県ツアーを3周にも渡って敢行するタフさは並々ならないものである。スクービードゥー先輩よろしくの現場至上主義。まさにミュージシャンシップに溢れているとしか言いようがない活動スタイルである。

 

普遍的なポップ感を大切にしたキャッチ―なメロディ、そして暖かさと力強さが溢れる歌詞からなる楽曲はまさに“誰もが好きになる音楽”である。彼らのライブでの入場SEがJackson 5の「I Want You Back」であることから分かるように、王道を愛し、そして信じ、その普遍的ポップスをこれからの世代へと受け継いでいくと言わんばかりの精神がひしひしと伝わってくるのだ。

とは言え、Vo.&Gt.秋野温の特徴的な歌声と、知識と技量に裏打ちされた拘りを感じさせる演奏が合わさることでそれは“鶴印”の音楽となるのである。これをまさにバンドマジックと言うのではないだろうか。

 

 

鶴の音楽を例えるのであれば「老舗のお弁当屋さんの幕の内弁当」だ。多彩なおかずが多くの人を惹きつけ、老舗ならではの拘りの味付けもピカイチ。そしてそれを出来立てホカホカのままどうぞ召し上がれ、と言ったところではないのだろうか。

 

 

生きる活力を与えてくれる埼玉の誇り

と言った形で情熱を込めて鶴について語っているが、私は彼らがまだ“アフロ時代”であった、2010年のメジャー2nd AL「期待CD」の頃からのソウルメイト(ファン)である。ライブにも沢山足を運んだ。上記の「鶴フェス」にも参加したが、あの多くの鶴ファン・音楽ファンが集い、楽しさを共有する景色は感動ものであった。心から嬉しく感じたと共に、私はこれぞまさに埼玉の誇りだと思ったのだ。

 

余談ではあるが、恐らくライブに行けば行くほど彼らのことが好きになれるだろう。演奏が素晴らしいことは勿論、MCが良いのだ。心に染みるアツいことを言うのである。音楽と言葉のダブルで、人々の背中を押し、生きる活力を与えてくれるのだ。それこそが彼ら「鶴」のモットーなのである。

 

 

 

 

洗練された流れと楽曲のクオリティが圧巻

そして本題の新譜「普通」であるが、これがもう最高でございまして。

 

 

とにかくアルバム1枚通しての流れが美しいのである。各楽曲による抑揚をしっかりとつけた展開で、アルバムの世界観に自然と浸れてしまうのだ。  

 

そして既発曲の存在感がしっかりと立ちながらも、アルバム全体に上手く馴染んでいるのが素晴らしい!よく先発曲(俗に言うシングル曲)のクオリティが際立ちすぎてアルバム全体としての印象がぼやけてしまうパターンがあるが、それが良い意味で無いのである。新曲のキャラクターとポテンシャルがハイレベルで確立されていて、尚且つ曲順もしっかり練られていることにより、これが成されるのである。

 

 

まず1曲目のイントロダクション曲「イントロ~FUTSU~」から非常に雰囲気が良い!わずか31秒のトラックながら、この後始まる素敵なアルバムを予感させる音像である。そしてしっかりと“伏線”も張っているアレンジ。よって是非ともド頭からの通し聴きを推奨したくなる。

 

 

その後間髪入れずに2曲目「歩く this way」でいよいよ本格的に幕が開がる。既発楽曲であるが、これがもう最高に良い曲なのである。スムースな四つ打ちのリズムが軽快なポジティブなナンバー。このクオリティを軽く出せるところが凄い。

 


鶴 - 歩く this way

 

“いくつになってもゴールがないのは生きてる証拠だ

こだわりすぎて始まらないのはもうやめにしよう”

 

本当に背中を押されるのである。最高。

 

 

 

「冬の魔物」は、元々鶴の人気曲であるサマーナンバー「夏の魔物」のセルフオマージュ曲である。同一のコード感をベースにし、その共通項からも遊び心を感じさせる構成であるが、見事に冬の煌びやかを想像させてくれるウィンターナンバーと昇華している。

これもまた軽快でキラキラとしたナイスなポップソング。冬の空気感を連想させる音色を用いたアレンジが冴えている。これから冬になってから聴くのが楽しみである。

 


鶴 - 夏の魔物

 

 

 

アルバムのリードトラックである「ペインキラー」もまた鶴らしい男気を感じる四つ打ちのロックナンバー。全体的に柔らかな雰囲気で進むアルバムに一つずっしりと、大きな抑揚を付けている。非常にライブ映えしそうなナンバーである。

 


鶴 - ペインキラー

 

 

Dr.笠井“どん”快樹作曲の「36.1℃」「きっとそう」といった、彼らしい暖かい雰囲気の楽曲がアルバムに一花を加える。緩やかなテンポの中、空間を上手く利用した音の埋め方が心地良い。また、Ba.神田雄一朗作曲の「Waiting Mother」は鶴らしい遊び心と笑い所が詰まったへヴィなファンクナンバーとなっており、アルバム通してメンバー各人の魅力が余すことなく発揮されている。

 

 

 

終盤でズシリと構えるのは、先述の「鶴フェス」のテーマソングでもあった既発曲「バタフライ」である。この曲の存在がアルバム「普通」の土台を固めてくれていることは間違いがないだろう。

 


鶴 - バタフライ

 

名曲である。シンプルかつ骨太なバンドサウンドに美しいストリングスの旋律、そして秋野温の力強い歌声が絡み合うミディアムナンバー。とにかく必聴の1曲。

 

“遠回りしたって 近づいているんだ”

 

彼らがこのように歌い奏でるからこそ説得力のある言葉である。そうそう近道はなんてものは無いのだろう。ただ続けていくことで、少しずつでも目標に近づいていくのだと。

 

私が感じるのは、2013年の自主レーベル設立以降ずっとバンドの健康状態が良すぎるのではないかということだ。彼らの中にある伝えたい言葉、作りたい音像、やりたいことが明確となっており、それらが確実に楽曲や活動に表れているのだ。この「バタフライ」も、そういった鶴のメンタルとフィジカルが再現されている1曲だと感じざるを得ない。

 

 

 

その後続く「アナログなセッション」が私は特にお気に入りだ。人と人との“アナログ”な繋がりを大切にしたいと歌うこのナンバーは、時期からして図らずのことではあるが、コロナ禍の今だからこそ響くものがある。

 

そしてラストナンバー「結局そういうことでした」であるが、アルバムを締めくくるにはぴったりの重厚なロックナンバーである。マッドな心情も吐露されているが、言うなれば明と暗が共存こそがポップミュージックであると私は思っている。秋野温らしい、この世にある闇の部分も“放っておかない”赤裸々さこそが何よりも強いところなのである、と私は思う。終盤のコーラスワークがロックオペラを彷彿とさせ、アルバムは最高の余韻を残しながらその幕を閉じるのである。

 

 

 

こう語ってきたが、実際私は普段あまりアルバムの通し聴きということはあまりしないのである。楽曲を絞って、のめり込んでしまう傾向にあるのだが、この「普通」は全体を通して聴きたくなるのである。私個人としては、理想のアルバム像というのは“1周終わった後にすぐ繰り返して聴きたくなるか”というところにある。熾烈かつ濃厚な内容で壮大な聴後感を与える作品やアーティストも多く存在し、そういったものも好きであるが、“お腹一杯でもう食べられない”となるよりは、“まだ足りん!また食べたい!”となる方がどうやら性に合っている。非常に“馴染む”のである。その身近さこそが鶴が生み出す音楽の最大の魅力だ。

 

 

ともあれ、鶴の最新アルバム「普通」は最高のアルバムです!

是非とも機会があればご一聴いただきたい!

 

ではまた!

 

 

普通

普通

  • アーティスト:
  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: CD
 

 

困った時のオムニバス〜2020年、梅雨入り

f:id:atsushidays:20200616032321p:plain

 

 

よく言う“◯◯中毒”。その人にとっての嗜好品に対するのめり込み度合いが非常に高い状態を表すこのワードではあるが、私もここ最近とあるモノの“中毒”状態となっている。

 

 

 

ズバリ、アロエ&白ぶどう中毒」である。

 

 

コカ・コーラ ミニッツメイド アロエ & 白ぶどう 280ml缶×24本

 

ジュース「ミニッツメイド」のシリーズの一つである。

 

 

コンビニやスーパーではほぼ売っておらず、主に自動販売機での購入となるこのドリンク。もう、これが馬鹿美味い。

白ぶどうジュースのスッキリとした優しい甘味に、柔らかくぷるぷるとしたアロエ果肉の食感が混ざり合う、最高に爽やかなドリンクである。

 

ここ最近はこれを毎日飲んでいる。とっても美味しい。とはいえ昔から知っていて、好きな飲み物の一つではあったが、最近はその“好き”が揺るぎないものとなってきている。LOVEである。毎日飲んでも飽きないのである。むしろ飲まないと1日が終わらないレベルになってきている。軽い病気である。

 

そんなわけで毎度自販機で買っているのだ。いよいよ箱買いも検討している。ただ、自販機でわざわざ買う手間もなんだか愛おしいもので、困っているところである。どうしたものか。

 

 

アロエ&白ぶどう」、最高です。是非皆様にもその味と食感(飲感)を体感していただきたい。私は中毒である。

 

 

 

 

 

“相棒”、という言葉がある。このワードで世間的には水谷豊氏の顔が思い浮かぶことが殆どだと思われるが、誰しもが自分にとっての相棒というものがあるのではないのだろうか。例えばその人にとっての恋人や配偶者であったり、ミュージシャンであれば愛用の楽器、画家であれば愛用の筆であったりと、肌身放せないものや人を表すのに、“相棒”という言葉を使うことがあると思う。

 

 

そう、私にも“相棒”が存在する。

 

 

 

その相棒は「メラミンスポンジ」だ。

 

 

 

「激落ちくん」なんていうキャッチーかつ受験生には絶対に渡してはならないネーミングで発売されているものが有名であるが、私にとってはこのメラミンスポンジが手放せない。

家の掃除が割と好きな私であるが、メラミンスポンジの活躍っぷりと言ったら凄まじいものがある。大体の汚れはコイツが落としてくれるのである。水回りは勿論のこと、ガスコンロ回りの頑固な油汚れにもガンガン使うのである。その他、気になる汚れにはメラミンスポンジをスクラッチさせるのである。ほら、ピカピカでしょ?

 

 

メラミンスポンジ、凄い!

(適当にやんな)

 

 

 

 

ふと思い出したのが、中学一年生の頃に当時同じクラスにエンドウくんという子がいた。中学二年生に上がり、それから今日まで全く疎遠になってしまった人ではあるのだが。

同じクラスだった時は仲が良かったのである。当時そんな彼が私にこんなことを言ったのだ。

 

 

「なんかアッチといると楽しいんだよなー」

 

 

確か、言われたのである。今思えば、こんな嬉しいことあるだろうか。彼がどんな精神状態で、どんな真意を持って言った言葉なのかは今となっては分からないが、ありがたいことだなと今もふと思う。

そしてそういう気持ちを素直に、しかも思春期真っ只中で、他人に対する照れや恥ずかしさ等がある年齢の時期に言えることが非常に素晴らしいことだと感じたのである。

 

まあだから何なのか、というところではあるのだが、もし今エンドウ君に会えたならば、その時のお礼を言いたいと思ったのである。

 

 

素敵やん?

(だから雑やて)

 

 

 

 

日々ブログは書いているのだが、遂行&ストック状態である。ズバリ音楽系の記事を書いているわけなのだが、私の熱量故に神経質にもなってしまうところでもあり、中々中途半端なものは出したくないところなのである。

武者修行、しております。

 

更新しましたら、そちらも是非よろしくお願いいたしますね!

 

 

困った時のオムニバス!たまにはこのスタイルやらせていただきます!

ではまた!

 

 

コカ・コーラ ミニッツメイド アロエ & 白ぶどう 280ml缶×24本
 

 

変口

f:id:atsushidays:20200530013928p:plain

「変口」、読みは“へんぐち”である。現在のところそこまで世間一般には浸透していない用語であるが、恐らく今後日本中、いや世界中で一大トレンドを巻き起こすであろうものであるので当ブログ読者の方々にはいち早くこの魅力をお伝えしたく思う。尚、変口に関しての一切のソースはこの私にあるので、インターネット検索をしたところで全くヒットしないことだけはまずご了承いただきたい。

 

 

新型コロナウイルスの影響により、マスクの着用が絶対的なものになっている昨今である。元々日本では風邪が流行る冬に、予防の為にマスクを着用する人が増加するのがごく当たり前の光景であったが、今はそうではない。季節の概念や人々の年齢、身体的能力を問わずマスクをしなければならない状態となっている。先行きの見えない不透明な現状。非常に閉塞感漂う世の中のムードである。

 

そんな今だからこそ、私は「変口」をここでご紹介したい。日々を強く楽しく過ごすための活力の一つとなれば良いと思う。

 

 

「変顔」という、初歩的でありかつ伝統的ともされている芸事については誰もが良くご存知だろう。顔中の筋肉を使い己の顔面を歪ませ変形させることで異端な表情を作り、見る者のひと笑いを誘う王道の手段である。時折、手や洗濯バサミ等の外的要素を用いて顔面を変形させる変顔er(ヘンガオワー)も存在するが、彼らは自らを反則スレスレのグレーゾーンの中にその身を置いていることを自覚していただきたい。アイテム利用は笑いを取るには実に強すぎるからだ。変顔とはシンプルな故に、非常に奥が深いものなのである。

 

そこで出てくるこの「変口」であるが、恐らくもうお分りであろう。

 

マスクを着用した状態で、マスクに覆われている口及び口周辺の頬を変形させる行為である。

 

 

この変口の重要なポイントは、マスクで覆われていない目や眉等の部分を変形させてはいけないところである。ついつい力が入ってしまい、全体変顔と同様の変形をしてしまう初心者の方もいるが、あくまでも“変な顔面を作っていることを悟られない”ことが重要なのである。

 

つまり「変顔」という行為における、他者の笑いを取るという意味合いからは正反対のものとなるこの「変口」であるが、どんな場所、どんな状況でも一部的に変顔を作ることができ、己の心身を解放できることが大きなメリットである。

 

「ほら、マスクで隠れて見えてないけれど、今オモロい形の口をしとるんぞ」と、ロックンロールかつパンクな気持ちになれるのである。その明と暗のギャップそしてコラボレーションこそが至高なのである。私に関しては、仕事の勤務中に変口を実施している。非常に爽快な、アッパーなテンションになっているのである。とても心地が良いのだ。

 

 

現在のこんな世の中だからこそ、少しでも楽しめる心の余裕というのを持つべきである。その一助となり得るのがこの「変口」ではないのだろうか。見えないところでコソコソと。さあ皆も変口の世界へ行ってみないか…?

 

 

 

 

 

 

 

割とやってる人いると思いますよ。

 

ではまた!

 

私はそれを許せない 〜ちょっと萎えさせんといてくれる?

f:id:atsushidays:20200525234904p:plain

“ギャップ萌え”なる言葉が存在する。この言葉が果たしていつ頃からこの世に誕生し、世間に浸透したのかは知らないが、今や当然のように人々(主に若い女性たちのイメージ)の会話の中に出没し、また誰彼の人間性を知り得るための感覚そして現象の一種として居座っているものだと感じる。

 

私はこの言葉が好きではない。懐の問題だと感じているからだ。“ギャップ”が生じ、萌えを感じられるということは、その特定の人に対する勝手な先入観が存在している状態である、もしくは単純にその人に関して無知であることが大きな条件であり、つまりギャップ萌えとは「勝手に想像して勝手に感動している」現象であると私は思っているからだ。

または単純に、ギャップ如きで萌えるほど私の心は忙しなくないからだ。勿論、人に関して思いもよらなかった性格の部分や、趣味趣向が発覚した時に、感動を覚えたり感銘を受けることはあるが、それは決して“萌え”ではない。悶え興奮し、はたまた恋愛感情さえ生まれてしまいそうな脳内お花畑なものではない。素直な感動である。わざわざ萌えてもいられないのである。

という、今回の主題への前提である。

 

 

私にとって許せない、もしくはそれを許すためには非常に寛大で豊かな心を持つ必要があるものがある。それは何か。

 

 

ヤンキーが手帳型スマホケースを使うこと、である。

 

こんなにも虫唾が走ることがあるだろうか?このことについて具体的に掘り砕いていく。 

 

 

数多く存在するスマホケースの中でも、手帳型ほど機能性と防御力の高さに富んでいるものは無いと言えよう。蓋となる表紙を閉じることによって、たとえスマホの画面側を下にダイレクトに地面に落としたとしても液晶が割れることは殆ど無いと言える。また、大抵の手帳型ケースの蓋の裏面には、カードを複数枚収納できるポケットが存在し、Suica等の定期券や免許証、社員証等をそこに仕舞うことで、それらの手軽な利用と出し入れを可能とする。スマートフォンという現代における我々にとっての身近な存在を有効に活用した方法である。

そんな利便性に優れた手帳型スマホケースを使うヤンキーが私は許せない。

 

ヤンキーとは至って攻撃的であり、どちらかと言えば反社会的である。どういった経緯でその生き方に至ったのかは分からないが、社会で真面目に規律を守って生活する人々にとっては迷惑極まりない存在であろう。

そのヤンキー、もしくはヤンキー風の男が手帳型スマホケースを使い、己のスマホをガチガチに保護し、かつ計画性に溢れた行動をすることが理に適っておらず、許せないのだ。

 

 

守るなよ、と言いたい。何故守る?ヤンキーは破滅的に生きることが世の常であり、そんな彼らが自分のスマホの液晶が割れることを恐れることがあってはならないのだ。

 

そもそもヤンキーは頭の悪そうなスカルマークのデザインのものや、派手めな色に染め上げられたプラスチック製のケースを使うことが関の山である。お洒落なデザインで丁寧に作られた革製の手帳型スマホケースを使うことなどはあってはならない。柄ではないのだ。もしくは潔くノーケース。故に液晶に関しては過去2,3度の落下によってバキバキに割れているくらいが丁度良いのだ。保護フィルムに関しては甘んじて着用を許可するものの、完全に封印されて取り出せない気泡が1,2個程度画面上に無くてはならない。

またSuicaや免許証をケースに入れて便利に携帯してはならないのだ。合理的なヤンキーなど存在してはならない。如何なる時でも刹那的に生きる、そんなヤンキーであっていただきたいのだ。

 

ギャップ萌えという言葉に関して多少の嫌悪感を抱き、やれスルーを決め込む私ではあるが、この“ギャップ萎え”に関しては酷くダメージを受けてしまうのである。痛みを超えて苛立ちを感じてしまう。辛いのだ。それであるならば、せめて萌えていたい。

 

私は言いたい。「手帳型スマホケースを使いたいのであれば、真っ直ぐな人の道を歩め」と。

世の手帳型スマホケースユーザーには、それに似合う生き方を心掛けていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

仮想敵シリーズ来ましたね。笑 長々と何をほざいているのか、自分でも困っておりますが。

とは言えですね、結構本気で許せないんですよこれ!笑 なので世の中のヤンキー諸君!私を萎えさせんといてな!

 

 

 

でも本当に一番許せないのは、

人の不幸をネタにして甘い蜜吸おうとしている底辺YouTuberなんだよなぁ…。

本当に腹ただしい。人間の屑め。

 

 

っていう本気の怒りを最後に。

ではまた!

 

 

奥田英朗「イン・ザ・プール」-活字初心者・苦手な人にも本気でお勧めできる1冊

イン・ザ・プール ドクター伊良部 (文春文庫)

音楽以外にも読書が一つの大きな趣味である私である。今回は私が敬愛する小説家とその著書をご紹介させていただきたい。

 

奥田英朗がこよなく好きである。イン・ザ・プール」「オリンピックの身代金」「ナオミとカナコ」等、多くの代表作品を持つ、日本を代表する小説家の一人である。

正直に言うと、自分の文章の書き方もかなり奥田英朗の影響を受けていると感じております。

 

ミステリーにファンタジー、青春群像劇にヒューマンドラマまで多彩に幅広く書きこなす腕前は天下一品である。作品本来のストーリーの面白さもさることながら、登場人物のキャラクターや舞台のディテールを大切に組み上げていく作風が非常に魅力的であり、圧巻である。ズバリ書き込みの濃さ、である。“痒いところまで手が届く”、という表現をしたい。毎度綿密なディテールを持って物語が進み伝わってくるので、それにより読み手の作品への入り込み方が濃厚に変わってくるのである。脳内で登場人物が動く動く、景色が浮かび上がり描かれる。グワグワ感情が揺さぶられる。ページを捲る指は止まらない。圧倒的で重厚な読後感。気が付けば奥田スタイルの虜となっているのだ。

そういった脳内映像化のし易さであったり、エンターテイメント性溢れるストーリー展開がある作風だからこそ、作品の映画・ドラマ化といったメディアミックスも非常に多いのである。世間の非日常欲を満たし続ける、紛れもないビッグヒットメーカーである。しかし私が声を大にして言いたいのは、それとは対象になんてことのない些細な日々の中にある温もりや幸せも表現できる懐の深さを兼ね備えているのが奥田英朗の素晴らしさなのである。

フィクションからノンフィクションまでの幅広い器用な書き分け。そしてどこにも一貫して溢れるのは“人間味”である。時に優しく時に儚く悲しい。そして温かい。極め付けには笑える。もうこれが私には堪らないのだ。

 

 

奥田氏の作風について、もう少し具体的に説明したい。それは各キャラクターにおけるバランスの取り方の妙である。

例えばAとBの2人の登場人物がいるとする。Aにフォーカスを当てる場面とBにフォーカスを当てる場面をそれぞれ平等に設け、どちらにも“言い分”を持たせてあげるのだ。Aを立たせれば次はBも立たせる、といった形で絶妙なバランスを取りながら、各キャラクターに読み手の感情が入り込む余地をガンガンに作っていくのだ。また、そのバランスが綺麗に取れているので、物語の進行とそれに対する読み手の受け容れ方も滑らかになるのである。

上記のことは実際に奥田氏がインタビューで発言していたことでもあるが、この奥田氏のディテールへの美学こそが作品の本質を浮き彫りにし、やがて我々を読書の恍惚へ誘うのである。丁寧に表現する卓越されたスキルとテクニックは流石。

 

故に「オリンピックの身代金」や「ナオミとカナコ」といった作品のメイン登場人物は、一般的な考えを持ってしては必ずや咎められるべき存在であるが、読み進める内に不思議と彼らを全力で応援し、スリルを共にする自分がそこにいるのである。これが奥田マジックである。人間味、全開である。是非堪能していただきたい。

 

 

 

そしてご紹介させていただく作品はイン・ザ・プールである。言わずと知れた奥田英朗作品の中でも最も有名なものでないでしょうか。

 

精神科医・伊良部シリーズの第1作目。2002年刊行。この後2作目「空中ブランコ」、3作目「町長選挙」と続き、「空中ブランコ」では直木賞を受賞。大ヒットシリーズである。

 

私自身、この「イン・ザ・プール」が奥田英朗作品との最初の出会いである。しかも読み始めたのは人生的には割と最近で、7年前程である。どういった出会いだったかは覚えていないが、その時はブックオフでたまたま目に入ったので買ったのである。何となく作品名は知っていたと思う(多分)。気付けば本当に良い出会いをした。

 

 

色白でデブの奇抜な精神科医・伊良部一郎。そしてその精神科に訪れる、奇妙な症状や悩み事を抱えた患者。伊良部の突拍子も無い治療の数々に患者は戸惑い呆れながらも、不思議なことにいつしか伊良部の術中に取り込まれていく…。

 

 

イン・ザ・プール」という題名の作品であるが、5つの短編で構成されている短編集である。1話読み切り型なので非常に読み易いのである。何と言ってもこれが活字初心者にもお勧めの第1ポイント!ついでに表題作は第1編に登場する。

 

 

とにかく笑えるのである。マジで笑える。楽しい。これを読めば読んでいる間は嫌なことを忘れられるのである。

 

何と言っても伊良部のキャラクターが最高だ。どう考えても常人ではないのだが、みるみる内にその滑稽さと破天荒な振る舞いに惹かれていってしまうのだ。そしてそのやり方はどこかしっかりと理に適っているからまた面白い。癒されてしまうのだ。

 

そして各患者のキャラクターも魅力的である。「こんなことあるわけねえだろ」なんて思いつつも、実際人間と言うものは分からないもので、自分でも誰にもいつどこで常軌を逸するかは未知数である。患者にも立派な言い分やそれなりの理由があり、その状態に達してしまっているのである。そういった人間の本質の捉え方もまた巧みで、これまた引き込まれてしまうのである。ただ、「勃ちっ放し」(2編目タイトル)には流石にそうはなりたくないが…。笑

 

サブキャラのマユミもまた良い味を出している。この女キャラがいるといないで作品の味の奥行きが変わってくる。料理で言うところの料理酒である。バランサーが随所で絶妙に活躍してくれるのだ。

 

改めてになるが、本作はニヤケて笑えてほっこりも出来る物語の数々である。爽やかな読後感が待っていることであろう。

 

 

 

と言うわけで、とてもサクサクと読み進められる一冊でございます。小説に興味がある人、活字が苦手だけど読書に挑戦したい人にはまず奥田英朗イン・ザ・プール」をお勧めさせていただきます。とにかく読み易いです!

 

映画化もされておりまして、その映画の伊良部役は松尾スズキなのですが、自分の脳内イメージでは芋洗坂係長なんだよなぁ…。笑 

 

ついでに個人的には2作目「空中ブランコ」収録の「義父のヅラ」がもう可笑しくてしょうがないです。笑 そして同じく収録されている「女流作家」では、今でも思い出し泣きしてしまいそうな温かい展開が待っております。こちらもご興味あれば、是非。

 

皆さんの人生にも豊かな読書ライフを!ではまた!