アッチの街の片隅から愛を込めて

迸るほどの愛を込めて、濃厚かつ丁寧に音楽その他色々を語ります。

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春風と破裂音

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人の忠告を素直に聞いておけば良かったと思う時がある。特にその人が何かの物事について専門的な人であればあるほど、そうだ。恐らくその人の“経験則”的なものが自信であり、忠告そのものの重みを増させるものなのであろう。

 

普通自動車免許を所有している私ではあるが、現在のところ車の必要性を感じる生活を送っているわけではないので、自転車をメインの移動手段としている。かれこれ自転車とは長い付き合いである。特別感すらある。

 

しかし、そのくせ自転車運というものがない。中学生の頃はしょっちゅう自転車の鍵を無くしてしまい、その都度学校の先生にも一緒に探してもらい、御手数御心配をよくおかけしたものだ。

そしてよくパンクする。これが深刻だ。年2ペースくらいではパンクしている。毎度だがお金がかかって仕方ない。恐らく乗り方の問題もあり、なんでもタイヤ内の空気は常に満ちている状態であることが重要なのだと。本来であれば度々気にかけて空気を入れておかなければならないのだが、私はついついそれを怠ってしまい、結果ちょっとした油断と怠惰が余計なパンクを招いてしまっていると言っても過言ではないのかもしれない。

 

そしてとある日また自転車のタイヤはパンクしたのだ。またか、と。タイヤの空気とともに、私の気持ちもフニャアと抜けてしまったのである。

 

 

近所に2箇所、行きつけの自転車屋さんがある。最近は家からすぐ近くの方に訪れていたが、気分を変えたくなりもう一つの店に行くことにした。

そこは自分が高校生の頃くらいから通っている。おじいさん店主が安定の腕前を愛嬌を見せながら店を切り盛りしている。“信頼と実績”とは彼のために存在する言葉だ。

 

しかし、そんな彼が一点だけ私にとって困るポイントがある。こちらとしてはパンクを直してほしいだけなのに、毎度チューブ及びタイヤ交換を促されるところだ。その都度反応に困るのだ。実際過去に交換をしてもらったこともあるが、今はまだその時期では無いだろうという私の読みである。

 

そして今回もまるでお決まりのように同様の台詞が彼から飛び出した。が、とりあえずパンクを直してほしい、乗れれば良いというこの時の考えの私だ。「(パンクを)直しても、すぐタイヤがイカれちまうよ」と彼は仰っていたが、お金も勿体ないのでパンクのみ直していただいた。何度も言うが、腕は確かだ。見る見るうちに修理は進み、復活。そして我が自転車は再びその息を吹き返し、あの素敵な軽快な走り心地をまた感じさせてくれるのである。

 

 

 

数日前のことである。食料品や生活用品の買い物へと、近所を自転車漕いで移動していた。昨今のコロナウイルスの影響もあり、買い物くらいでしか休日は外に出ないのでちょっとした気分転換でもあるこの時間。春風を感じながら軽快に自転車を飛ばしていたのである。

 

家からはやや離れた、目的のスーパーが見えてきたあたりでのことだ。

急に「パァーーン!!」と、まるで抜けの良いスネアドラムのような渇いた音が響き渡ったのである。私は驚き、自転車を止め周囲を見回した。

 

するとどうだ、自転車の後輪が完全にパンクしていたのである。運転時における破裂パンクは人生初である。やってしまった、と。しかもよくあるいつものパンクではない。自転車を無理にでも手で押すと、後輪のタイヤとチューブがホイールからフニャフニャと外れ、車体自体に絡まってしまったのである。そして後輪は動かなくなった。完全にやらかしたパターンである。自転車を動かすには荷台を持ち上げて、前輪のみで前進するしかない。マジでダルいやつである。

 

なんとかスーパーまで辿り着き、駐輪場に自転車を停める。さて、どうするものかと。

 

しかし、ここで意外にも冷静であった自分が居たのだ。と言うのも、私は1年程前に自転車保険の加入を済ませていたのである。その保険サービスの一環で「自転車ロードサービス」たるものが存在していることを頭の片隅に入れていたのだ。つまり、壊れてしまった自転車を自分の代わりに運んでくれる、というものだ。

 

日々安全運転を心掛けている故に、この日まで自転車保険は“お守り”としての効力でしか無かったが、幸か不幸か、遂にその実力を発揮する時が来たのだ。

 

早速専用のアプリを介し、ロードサービスの出動要請をする。程なくしてサービスセンターの方から直接連絡を頂き、事情を説明する。特に問題もなく、要請完了。40分程で来ていただけるとのことであった。もう、一安心である。有難すぎる。

 

しかし、こちらまでの到着までの時間が中々長いので困ったものである。陽はやがて段々と落ちてきて、気温は下がっていく。春風も強く吹き付け、非常に寒いのである。近くに図書館があるので、本来であればそこで時間を潰すものの、現在は当然休館中である。暖を取るため、仕方なくスーパーの中をひたすらにウロウロしている他無かったのだ。完全無欠の怪しいヤツである。

 

もう爆裂的に煙草が吸いたくなりましたよ。笑 何なんだ一体、と。「パァーーン!!」じゃねえよ、と。笑 しかし我慢しましたけどね。

 

要請から約40分後、表に出て到着を待っていると、それっぽい軽トラックと、またそれっぽいバンが駐車場へ入り込んでくるのが見えた。「おぉ、救世主の登場じゃ」と、つい安堵の息を漏らす。しかしそのどちらでもなく、別の方向からオレンジ色の作業着を身に纏った愛想と体格の良い男性が私の方へと歩いてきたのである。あれま。ともあれ、現場到着である。作業員の方は後輪が萎れ切った私の自転車を確認し、そして「自宅までで良いですか?」と私に自転車の運搬場所を確認した後、ドナドナ自転車を運んでいったのである。込みこみで1時間程膠着状態の私であったが、こんなにも助かることはない。お礼、感謝。

 

ついでに、防犯上の観点から私自身は運搬車に同乗できないのである。笑 なので一人歩いて帰りましたとさ。

 

 

いやー、参ってしまいましたよ。最初からあの自転車屋さんのおじいさんの忠告を聞いていれば、こんな急なアクシデントは起きずに済んだのかもしれないですね…。

非常にダルかったです。ただ、一番ダルいのは「これもブログのネタになるぞ!」と思ってしまった自分であることは間違いないのである。

 

皆さんもくれぐれも自転車にはご注意を!ではまた!

 

 

 

パエリアに憧れて

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「未来」、それは当然我々には知る由も無い。例えば、その人に特別な予知能力があるのであれば話は変わってくるが、普通の人であればそのような奇跡は存在しないだろう。先のことなど、普通の私達には分からないのだ。

 

ただ一つ言えるのは、「今」とはつまり「あの日あの時の未来」である。幼かったあの日、そして物事を今よりも知らなかったあの時から現在。どんな未来たちが私達を待ち、私達を出迎えたのでしょうか。

 

自分もそうであるが、人は大体の自分自身のことが理解できてくると、自然と物事に対する可能性を途絶えさせてしまうことがあるのでは無いかと思う。単純に言うと向き不向きだ。何となく自分が苦手であったり、相性が悪いと感じられるものには自然と手を出さなくなっていく。それどころか、避けていくようにもなっていく。

その逆も然りであり、得意な分野や好きなものに対しては堂々と足を進み出せる。より知りたい、深くなりたいと思える。これらについてはなんて事のない普通のことであり、本来の人間が持つ建設的な考え方によるものであろう。

 

 

しかし、時としてウルトラCが人生には起こる。予期していなかったことが起こることがあるのである。(ウルトラCとか言っている時点で、自らはもう若くないと思ったりもしている)

 

それはつまりどういうことか。

 

まさか自分が好きになると思っていなかったものを好きになる、という経験はないだろうか?

苦手だと思っていた、知らぬうちに距離を取っていた人と何かの拍子で互いに大切だと思える関係になったことはないだろうか?

まさかハマると思ってなかったものに、急にどハマりをする経験はないだろうか?

道理を越える、という経験だ。

 

 

私の場合、その一つが音楽である。私がとても音楽好きであることはなんとなく当ブログを読んでいる方であれば薄々感づいていると思うが、そもそも自分がこれほどに音楽に夢中になるとは、少なからず子どもの頃は思っていなかったのである。

 

小学生の頃は音楽の授業が苦手であった。たまに訪れるリコーダー演奏のテストなんてものはもう最悪で、緊張はするわ上手く吹けないわ、大嫌いであった。地獄の時間であった。音楽に対して一切特別な感情なんて抱いたことはなかった。とても縁がなく、遠い存在と感じていた。興味自体無かったのである。

 

しかし、小学6年生あたりからそれは一転する。きっかけは当時4人組のDA PUMPだ。自分でも知らぬ間だった。予想不可のスピードであった。何故だか分からないが、一度彼らに触れた瞬間から、その魅力に強力磁石の如く吸い付けられ引き込まれてしまったのである。DA PUMPのカッコ良さに惹かれ、そこからどんどんと景色が広がっていくように、晴れて音楽好き人生が始まったのである。これがまさにウルトラCである。

 

また、前回の記事にも書いた煙草についても、ある種のウルトラCである。大嫌いだったものが大好きになるパターンのやつ。そして、急に辞めてみるってやつ。笑

 

 

そしてここ最近である。新たなウルトラCが私の身に降りかかろうとしている。

 

 

空前絶後のサッカーブーム到来である

とりわけ、海外の。

 

 

 

サッカーほど私と縁のないスポーツは無い。小学生の頃は友達と遊びでやっていたこともあったが、所詮は遊び。特別に思うことなど一切なかった。

 

更に、自分は小学4年生あたりから野球に夢中になる。松井が好きだった。世代的にそうですが、松井とイチローですよ、やっぱ。いつのまにか、野球をやるようになるのである。始めたきっかけは忘れたが、単純に楽しいからやっていた。テレビで野球を観るのも好きだった。選手の背番号を覚えることもハマった。コロコロコミックで連載されていた「ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん」を夢中で読んでいた。プロ野球選手になりたいと思ったこともあった。野球というスポーツが、他のスポーツよりも頭一つ出る、特別なものとなった。

 

その流れで中学の頃は野球部に所属した。まあ結局野球への情熱は中学途中で消え、そこからは音楽やお笑いといったエンターテイメント大好き人間へと相成るのですが。一見明るいが、根は暗い陰キャラ中学生だったと思う。

 

野球とサッカー、どちらとも日本を代表するスポーツであり、その人気を二分している感は否めないだろう。どことなく、それぞれのスポーツに取り組む人間の性質も違うと思う。性格的な部分や考え方の部分だ。

 

野球少年だった自分としては、サッカーというスポーツはまるで縁がなく、サッカーを好む人に関しては、自分と全く正反対のベクトルにいる者なのだと思っているのである。そう思っていたこの30年間であった。

 

 

1ヶ月程前である。時すでにコロナ影響による自粛ムードであり、気軽に遠出で遊びに行くことを憚り、ある日歳下の友達君とゲームのウイニングイレブンをして遊ぶことにした。彼はサッカー好きである。

 

ウイイレに関してはちょいちょい遊んだことがあり、正直好きな部類であったが(好きなんかい。笑)、おおよそ中学生ぶりくらいのプレイである。これが大盛り上がりだったのである。「アッチさん!メッシ使いましょうよ!」なんて言われ、ぶっちゃけ言うとこの時顔すらもピンと来ていなかった、名前だけなんとなく知ってるメッシを使い、勢いに任せて遊んだ。神の子メッシはウイイレでも遺憾無く神の子っぷりを見せるのである。何しろスピードがダンチである。速い速い。どんどんDFを抜いていく。手に汗かきながらコントローラーを握り、まさに少年時代に還ったこの瞬間であった。

 

そして私は単純である。「サッカー楽しいな」と。もっと選手の名前覚えてぇ、サッカー詳しくなりてぇ、となったのである。

 

日本のサッカーも良いが、やはり海外のスピーディかつテクニカルなサッカーに惹かれるのである。しかし全くもって知識ゼロと言って良い自分。もうそこからは全力でWikipediaYouTubeの名プレイ集で猛勉強である。いやメッシは神の子やなと。クリロナ(クリスティアーノ・ロナウド)もヤベーなと。ブスケツスゲーなと。とにかく知識を頭にブチ込んでいくのである。そして覚えたことはすぐ言いたくなる私でえる。すぐエル・クラシコ言いたくなる。単純である。ウルトラC、此処に在りだ。

 

サッカー好きの友人の影響もあり、みるみるハマってきている状態である。それ故に逆に後悔もしている。もっと早くサッカーの魅力に気付いていればと。往年の名選手がもう引退していたりするのである。シャビがいる時代のバルサが観たかった。

しかし彼は言った。「まだメッシとクリロナが現役なんですよ!遅くないですよ!」と。ありゃあシビれたね。良いこと言うな、と。

 

まさかここにきてサッカー好きになるとは、と。これだから人生面白い。

 

まあ言うて一昨年のW杯は、全く興味無いフリをしつつも日本戦はほぼほぼしっかり観るという大ミーハーをブチかましましたが。笑 再来年の2022年カタールW杯までに仕上げていきたいと思っている。勉強をして詳しくなって臨みたい。

 

今現在はコロナの影響で、どの海外リーグもシーズンが行われていない。早くこの状態が緩和されて、無事に再開催されていくことを祈っている。

 

私はもはやスペイン料理が食べたくなっている。そのくらいの熱量(?)である。コロナが収束したら、メッシのユニフォームを着てパエリアが食べたい。見た目から入るスタイルである。そんな日を夢見ているのである。

 

 

ついでに、私が一番得意(自称)な球技は、

卓球だ…!(コリャ一本取られたね…!)

 

 

ではまた!

 

Cigarette's Blues-シガレッツ・ブルース

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かく言う自分も、昨今の新型コロナウイルスの猛威に戦々恐々とする1人の人間である。ここ数ヶ月に渡って我々の生活、そして命を脅かし続けていることは言うまでもない。

 

まあ自分も今日までにおける政府の対応やら、未だ危機感の薄い人々やらにああだのこうだの吐き散らしたい欲望はありつつも、現状このブログのおちゃらけたテイストにはあまり合っていないので、書かない。時としてはいち社会人いち人間として、ポリティカルな内容への言及も必要になるかもしれませんが。「考える事をやめないでいよう」という言葉だけ残させてください。大事ですからね、社会にとっても、他人にとっても。

ともあれここでは楽しくやりましょう。どうかお付き合いよろしくお願いいたします。

 

私アッチも、仕事と食料品の買い物以外は殆ど家から出ない、自粛生活を送っております。言うても、今年の2月入って以降はもう地元埼玉からは(意識的に)出ておりません。

 

私は職種柄(会社柄?)現状まだ特殊な変化なく仕事をしているのですが、普段は電車通勤のところ晴れた日は自転車で職場まで通ってみたりして、“3密”を上手く避けながら、サイクリングさながら気分転換を楽しむ生活です。

とにかく今は我慢ですからね。頑張って乗り越えていきましょう。

 

 

そんなコロナウイルスの影響が世界各地や我々の身の回りで出始めている中、私の生活にもとある影響が出てきているのである。

 

煙草を吸える場所が無いのである。軒並み、職場の喫煙室は封鎖状態である。

 

 

実は私アッチ(30)は喫煙者である。いや、“あった”とでも言おうか…。

 

 

元々は大の嫌煙家とも言える部類だった自身であったが、26歳の時に心の奥底に眠る冒険心が、ふと煙草への道へと誘った。吸い始めはその煙たさや匂いに苦戦を強いられたものの、慣れてしまってからは生活に無くてはならない存在に。

 

とは言ってもライトスモーカーの方だとは自負している。2日で1箱吸い終えるくらいのペースかつ、煙草のタールは1mg(メビウスのイエローオプションを愛吸)。

 

じゃあなんで吸っているんだ、という話になってきてしまうが、やはり煙草があると無いとで違うんですよね。確かに気を紛らわしてくれるような、ストレス解消の一端を担う効果もとい成分がソイツにはあると思うし、1人でも、また友人と一緒にでも煙草を吸ってチルアウトする時間が好きだ。大人の時間やなぁ、思う。自分に箔がついた気もする。とは言え当然体には害が有りますが。

 

ただ、ここ最近は吸える場所が無く、仕事の日も休憩中に吸うことが無くなったので、それに伴い日に日に1日の喫煙本数が減少していったのである。

 

1週間程前の事である。自宅で起き抜けに煙草を吸ったその時、ニコクラ(ニコチンで頭がクラクラとする現象)が酷く、倒れるんじゃないかというレベルであった。血の気が引いて貧血寸前かのような状態。非常に冷や冷やとして、恐かったのだ。吸わない生活に慣れてしまい、体が受け付けなくなったのだろうか。それとも神のお告げか…。

 

 

この瞬間自分は決意したのである。

そうだ、もう煙草を辞めよう、と。

 

 

 

と言うわけで、現在5日目である。当時残っていた最後の1箱を吸い終えて以降購入自体を止め、全く吸っていない生活を送っております。

 

ただ、自分に関しては先述のように元々の喫煙本数が少ないことと、喫煙期間が短かったことが、このような状態に成れる要因だと思います。何故敢えてこのように言うのか。それはつまり、やはり吸いたいと思うからです。煙草美味しいんですよ。正直この記事書くのも中々にしんどい。自ら吸いたさを助長しているのである。あれば吸ってますから、恐らく。

 

それにしても、体質の変化(?)が呼び寄せた、全く予想していなかった突然の事態である。よって煙草への愛情が消えたわけではない。

今この状態は、“距離を置いている”とでも言おうか。本当は愛しているオマエだけれども、一緒にいるとオレはダメになってしまうのだと…。哀愁すらあるのである。まさにブルースだ。叙情詩である。切ない、とも言える。

 

 

まああれですね。友人との飲みの席や、煙草があった方が素敵な場面ではまたソイツの力を借りると思いますね。ただ、自分で能動的に率先して吸うことは辞めにします。と言うか、辞めることを頑張ってみます。

 

世間的にもマジで吸える場所無くなっていますからね、この4月以降。コロナ関係なく。まあ丁度良いのでしょう。己の健康のため。何しろ、仮にコロナにかかってしまったとしても、煙草吸っていないことは良いことですからね。

 

 

というわけで、どうか当ブログが少しでも皆様方の自粛生活の気晴らしになれば!ではまた!

 

 

“変態”って、何なのさ

ニガミ17才(というロックバンド)の岩下優介(Vo.&Gt.)と平沢あくび(Syn.)が深夜のテレビ番組に出演しているのをたまたま観た。まず始めに言うが、私はこのバンドへの興味は殆ど無い。所詮「ただし、BGM」の一発屋だと思っている。今回このバンドを紹介するために名前を出しているわけではないので、気になった読者の皆様は各々でお調べいただけると有難い。

(愛を込めていればこのようにちゃんと書きます)

 

俗に言う、“一般的な感覚とは多少ズレた奇怪”な音楽性のバンドである。簡単に言うと“変態”さをウリにしている、と言ったところだろうか。直球ではない、って感じかね。

 

世間的な知名度はまだ並以下と言ったところでしょう(それが「悪い」ことではないことは説明無用でよろしく)。まあ勿論、ロックファンや音楽好きな方々は当然チェックされていることでしょうが。ただ、ここのところは平沢あくびの独特な恋愛観や、そのルックスを全面に出して、彼女が音楽とは関係ないテレビ番組に出演しているのを見かける。そんなんでテレビに出る前にまずバンドで売れろよ、と率直に思う。売れるためには“卵が先か、鶏が先か”的な話でもあると思うのだが、貴方達の場合なら音楽が先だろう、と。しかも平沢は最近はちょっと太ってきているようにも感じる。そのやり方で名を挙げるなら、せめて己の美は保てよ、と言いたい(ルックスの好みは人それぞれだろうが)。

 

その番組で、MCが岩下優介に対してこう質問をしていた。「“変態”とはなんですか?」と。そして岩下はこう答え始める。「僕はこれまでずっと変態をやってきたのですが…云々…」

そこまでしっかりと耳を傾けていたわけではないので、質問への回答についてはぼんやりとしか覚えていないが、その語り出しに私は「あぁ、所詮そんなもんなのね」とかなり残念に感じたのである。岩下は「ジャズがー、オシャレがー」とどうたらこうたら話していたが、一向に私には響かなかったのである。

 

 

 

さて、“変態”とは何だろうか。

 

変態それは「(一般とは)違う・異なる・特殊」という意味であることには間違えない。

例えば今回の件で言うと、音楽性が“変態”であったり、他は性的趣向が“変態”であったり、感覚が“変態”、行動が“変態”、思考が“変態”と、様々な“変態”が数多く存在する。そりゃそうだと。変態もといHENTAIは世の中に溢れているのである。

 

では、何故ニガミ17才岩下の“変態”への解釈が私に響かなかったのか。

 

いやぁ、“変態”って自分で言うものじゃなくない?えぇ?

 

 

“変態”なこと(今回で言うと音楽または音楽性)をやっている自覚があるうちは、“変態”じゃないと思うんですよね。結局は周りからどう見られるかで決まるものだと思うんですよ。

 

「変態でしょー変態なことやってるでしょー」の感覚で、あたかもウケを狙っているようでは甘いかなと。ぶっちゃけイタいわ。周りから「うわ、これ変態だわ」となるのが本当の評価よね。価値観は人それぞれ違いますから。そして、それを天然で、自然発生的に行う者こそが真の“変態”なのではないかと。己を俯瞰で見たときに、説明が可能であるほどに冷静に遂行して、それが周りから“変態”と受け入れられてこそ初めて“変態”と言えるのではないかと。

 

えー、書いていて訳分からなくなっております。笑 

 

具体例を挙げていきます。私はZAZEN BOYSが大好きである。愛している。令和になってから既に2回ライブ観ている。彼らの音楽は変態そのものだ。面倒だから説明はせん!笑 変態変態変態!堪らん!と、私はなる。

しかし、彼らの“極極(キワキワ)”な音楽性に裏打ちされるのは卓越したテクニックと、複雑な演奏をあたかも自然にこなす冷静さ。向井秀徳の凛とした立ち振る舞いと、和の精神ならぬ礼儀をわきまえたステージング。彼らはいたってナチュラなのである。そこがカッコ良いのであって、シビれて、堪らないのだ。唯一無二なのだ。そこに私は真の“変態”を見る。彼らは自らを「変態やってます」なんて語らない。これなのだ。

 

少し論点をズラすが、私は俗に言うサブカル厨が好きではない。彼らは自分に浸っているからだ。“人とは違う”という主観を盾にして、己を特別だと、ズレていると思ってならない。それが私にしたら実に面白くないのだ。“人とは違う”ことを考えてる時点で、それ造っているよと。成り切れてないですね、と思う。まぁ妄想ですが。

 

また、惡の華という漫画がある。これも説明面倒なのでしないが、やたらと“変態”を取り扱う内容のストーリーとしては、その捉え方には非常に辟易とした。全裸の主人公に対して冷静なヒロインなんて、現実世界じゃおらんでしょ。途中で読むのやめました。面白くなかったから。“変態”じゃないの、それ。変態の押し売り。何がしたいのかと思った。

 

やたらと“変態”というワードが横行するエンターテイメントの世界だとは感じるが、本来の“変態”というものは醜く、気持ちが悪く、不安なものである。違和感または嫌悪感でしかないのだ。それを忘れてはならない。ただ、“変態”に共鳴や感動をする人もいるわけで、その合致によってそこにグルーヴが生まれ、新たな文化が作られるのである。それは時として美しく綺麗なのである。

簡単に“変態”という言葉を用いてほしくはない。“普通”を知らなければ変態なことは出来ません。その“普通”こそが実に深い。本当にそれは面白いですか?と。知恵を振り絞り、自らを客観視し、冷静に判断し、取捨選択し、生み出されるもの。それが“変態”なものである。それをやっている人は、自らを“変態”とは言わないだろう。それが通常運転なので。 

 

長々と話しましたが、伝わったでしょうか?笑 

「自分変態です!」はダサいって!それがエンターテイメントであるならば尚更!

そんなことを感じた私アッチでした!ではまた!

 

とある忘れることのない出来事

それは私が小学1年生の時のことである。

 

以前に当ブログで書きましたが、現在私は埼玉県在住でございます。しかし、元々自分は東京生まれであり(この“東京生まれ”という肩書きは我ながら好きである)、小学2年生の二学期まで東京都内のとある小さな市に住んでいた。なのでこれから話すのは東京時代のことである。

 

当時自分が通っていた幼稚園が、その頃住んでいた家からはやや離れたところにあり(どういった理由でその幼稚園に通うことになったのかは分からないが、良い幼稚園だった)、それなりに楽しくは過ごしていたのだが、小学校に上がるとなると必然的に自分の家の最寄りの学校(信号を一回も使うことなく行ける程に激近)に通うことになったので、同タイミングで入学する同級生に自分の友達がほぼいないという、中々にアウェイな状況に若くして挑むことを選ばざるを得なくなった。

(尚、当時住んでいたマンションに同じ学校に通う同級生の友達が一人いたので、その子が心の支えではあった)

 

自分が暮らしていた東京某市の小学校は、その数が約11個程に分散されており、第一、第二…と名前が続いて付けられている。自分は第九小学校であった(ヴェートーベンか!というツッコミが聞こえる)。そのせいもあるのか、入学時のクラスは1クラス。各学校の児童数が少ないのだ。なので、何としてもそのクラスで上手くやっていかなくてはならない。

 

ドキドキの新1年生!不安や緊張が入り混じる面持ちのアッチ6歳。ただやっぱり当時は子どもですし、皆も同じ心境だ。初めましてでもなんとかなるんだよね。自然と溶け込めるもので。

 

入学初日のことである。どういった経緯だったかは完全に忘れたが(おそらく初期設定の席が近かったのだろう)、一人の女の子と友達になった。この少女の名をまゆみ(仮名)としよう。初対面ながらも親しく話すことができ、非常に安心感を得たことは言うまでもない。とりあえず翌日以降もこの子とは話せる、という揺るぎない実感を得ていた。幸先の良いスタートであった。

 

 

入学二日目のことである。

登校し、彼女を見つけた私は「おはよう、まゆみちゃん」と元気良く挨拶をした。すると、まゆみちゃんはこう言い放った。

 

 

「貴方、誰?」

 

 

え?どういうことだ?ちょっと待て、昨日の今日だろう。俺は知らぬ間にパラレルワールドに迷い込んでしまったのか?もしくは俺みたいなYOSOMONOへの仕打ちか?戦慄が走る。完全に頭はパニックだ。

 

その間も無く、別の一人の少女が横から出てきて話しかける。

 

 

「アッチ君、その子はまゆみじゃないよ。私だよ。」

 

 

え?どういうことだ?パニック状態から我にかえり、しっかりと自らが置かれている状況を見返す。するとどうだ、最初に自分が話しかけた少女と、横から入ってきた少女の顔が同じである。

 

 

もうお気付きのことであろう、彼女達は双子の姉妹だったのだ。完全に虚を突かれたのである。

 

 

私がまゆみちゃん(仮)だと思っていた少女が言う。「私はまなみ(仮名)よ。」と。

 

つまり、私がまゆみちゃん(仮)と思って声をかけた少女はまゆみちゃん(仮)ではなく、まゆみちゃん(仮)と双子の姉妹のまなみちゃん(仮)であったのだ。

 

これが私の人生で初めてであり、以降体験することのない双子パニックである。現在の日本の中学教育における歴史の教科書の年表にもアッチ、双子姉妹パニックになる(1996)」と記載されていることは言うまでもない。この具体的な説明を持ってすればしっかりと覚えられることは間違いない。いざテストで出てもバッチリ回答できるだろう。

 

この衝撃と驚きは、きっとこれから先の人生でもきっと忘れることのないものだろう…。

 

 

 

いやー、マジですよこれ。笑 本当にビックリしましたからね。ましてや当時小学1年生ですよ。すげー怖かったです。

多分ですが、入学二日目のこの出来事の後に、クラス一人一人の自己紹介の件があったのでしょうね。覚えてないけど。

とは言え、現在情報過多かつ情報拡散が早い時代ですから、こういった直球で双子の人で驚く経験というものは中々出来ないと思いますからね。新鮮でオモロい経験させていただいたものです。こんな愉快な経験、この先あるだろうか。(いや、ない)

 

またこの姉妹の名字がわりかし珍しいんですよね。そしてその名字の人とやたら縁があるのですよ。笑 なので余計に深く記憶にも刻まれているわけで、そのせいかこうやって思い出したりもしている次第でございまして。

 

ではまた!(ドン!急に終わらせる!笑)

 

BOSEの日米欧全店閉鎖にショックと衝撃を隠し切れないアッチ

掲題の通りですが、2020年1月16日に「BOSE 日米欧の全119店閉鎖」という個人的に超衝撃なニュースが舞い込んできました(Yahoo!ニュースのリンクを貼っています)。今回はこの件について話をしていきたいと思います。

 

BOSE、読みは“ボーズ”ではございますが、言わずと知れた世界トップを誇る米オーディオ機器メーカーですね。卓越した科学者達の創造力と技術を持ってして生まれるBOSEの製品は、音質・機能性・デザイン性と非常に優れており、かつ唯一無二。その歴史は1964年設立から50年以上の時を刻み、音楽・映像コンテンツを愉しむ世界中の人々の圧倒的なパートナーとして、今日まで至っております。

ついでに、2012年より日本武道館の音響システムはBOSEですよ!どうりで音良くなったと思ったよ!

これまたついでに「BOSE」という名は、創設者のアマー・G・ボーズ博士が由来となっております。(ボーズ博士マジ神)

 

で、何故私アッチが今回この件について熱弁を振るう、またはそうならざるを得ないのか。より信憑性や説得力を増すべくここでぶっちゃけてしまいますが、私つい数年前まで国内BOSEの某直営店のセールススペシャリストとして勤めていたのです。

 

ということもあり、いやぁBOSEへの愛情は深いぞ!笑 本当にBOSEの製品はえげつない凄いですよ!音質は当然めちゃくちゃに良いとして(この“音質”という言葉一つの中にある実際の深みですよ…語ると長くなるので辞めますが。笑)、我々が生活・日常の中でいかにエンターテイメントをより親しみ易く取り込んでいくかという命題を実直に果たしているメーカーこそBOSEなのです。海外のクリエイター・科学者の方々頭良すぎるんだよ!笑 とにかく製品に用いられる技術が凄いですから。アンド情熱ね。

 

BOSEロゴですよ、ロゴ。あのロゴのカッコよさと誇りですよ。皆様も街中で一度はお目にかけたことあると思います。

 

私レベルになると、例えばお店で「あれ、なんかここ音良いな」と思ってスピーカー見ると案の定BOSEのロゴがドーン!ですよ。聞いただけで分かる。低音が違うんだ、深い。あとは圧倒的にクリアな音像だよね。

 

で、働いていたわけなんですよ。当然最初はBOSEの凄味なんてものは知りません。ただ、働きながらBOSEの歴史と製品について真剣に学び、向き合い、知り得ます。そして徐々に膨らみ抱くBOSEへのリスペクトと愛情!染まっちゃうんだよ、これが。引き込まれていくのです。それがBOSE

 

BOSEで販売員として勤める者は“セールススペシャリスト”として、より多くの感動をお客さんに伝え、理解していただき、やがて製品をお持ち帰りいただくために訓練を重ねます。練習をします。勉強をします。恐らくですが、BOSEに勤め販売をした人は、他の並大抵の販売業はぬるく感じることでしょう。高度なレベルの知識・姿勢・立ち回り・誠意をそこで身につけるのですから(そういう自分はどうだっただろうか。笑)。

と、多少手前味噌ですいませんな感じで話してまいりましたが、十分アッチの熱が伝わったところでこの度のニュースに触れていきます。

 

 

日米欧全店閉鎖というナニコレ的な事態ですよ。え?お店無くなるの?っていう脳内クエスチョンマーク×100。

その理由は「ネットを介した販売スタイルへの移行」ということで、まあ解りやすい。まあそうだよな、っていう。

いやー、実際Amazonのセールなんかでは、実店舗の存在意義を抹殺する価格で製品が出されていたりするわけですよ。いやいや待て待て(汗)、っていうね。

便利な世の中!何でもネットで手軽に買えますから。しかも安いし。たまったもんじゃないよね、現場の方は。

 

にしてもだ!舵切りが大胆だよアメリカ人!(苦笑) 急すぎるでしょ!しかも今年数ヶ月以内にて…大胆!中国やインドなどの実店舗は除外というところは、該当国のインターネットに纏わる環境の進展の差や、店舗数の違いによってのものでしょうかね。推測ですが。これだから外資企業は恐いよ。リスペクトと恐怖の表裏一体。マジなんなん。

色々思いますよマジで。ショック!おかしいだろ!ってか少なくとも日本に関してはまだまだ実演販売の需要十分にあるだろ!笑 自分を含めですが、信頼を買いたいんですよ日本人は!そうだろ日本人!この目で見て、この耳で聞いて、感じて選びたいんですよ!その道標であるのがダイレクトストア、直営店ではないのか!?それをやってくれる素敵な場所、素敵なスタッフ達だぞ!とてもじゃないが量販店じゃそこまでは厳しいぜ。本当に書いていて瞳が潤んできそうですよ…。マジで虚しい。

 

そして、大切な僕の仲間達のことを想います。今でも仲良くさせていただいて、BOSEは気の良い人々の集まりですから、今日までも楽しくやらせてもらっているんですよ。そんな場所が無くなってしまうことが最悪だし、役割を全うした仲間のその先がシンプルに心配です。

 

やれAIだやれネットだ、みるみる内に世界は便利になっていきますよ。この先の世界で人間はどのような役割が必然のものとして残るんだろうね。本当に謎。便利すぎることは本当に素晴らしいものですか?人間というモノの進化の文明が止まりません?恐いよね本当。

そんなことまで考えると、例えば様々な資格を取ったり、自分にだけしかできないことを身につけるのは必要なんかなぁ思いますよね。よく分からないけど。AIって言葉は個人的に正直ウンザリ気味。“SNS疲れ”なんて最近よく言うけど、“AI疲れ”なんかも後々出てくるんじゃないの?そんな気がするよ。

 

ともあれ、BOSEの大英断ってわけで、これでビジネスが大成功するのならもう何も言えないわけでね。ってかそうしろよ!この先未来永劫にBOSEの名を轟かせ続けるための決断なのだろうから。にしても悲しい、辛いね。

別にそんな聴いてるわけではないけど、Mrs.GREEN APPLEインフェルノの歌詞が頭に浮かぶね。永遠は無いんだと 無いんだと云フ…ってね。

 

BOSE、僕は大好きだよ!今回も愛とリスペクト込めたったよ!どうか良い未来が皆にあれ!でもまだ凹み続けるし、仲間の話も色々と聞きたいと思います!こんなことも吐けるためにこのブログがあることを改めて実感。とりあえず本日はここらへんで!ではまた!

 

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BOSEの素敵なProducts

 

目玉焼きにかける調味料に関しての我が思想

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どうも、最近また風邪をひいてしまいまして心身共に参っておりますアッチです。どうぞよろしくお願いいたします。

 

「目玉焼きにかける調味料論争」はどの時代においても絶えず行われてきました。“醤油派”“ソース派”の二派による正義と誇りをかけた争いは今もなお日本中で巻き起こっております。例えばこのブログの読者の方もいずれかの流派なのではないかと考えております。

 

そもそも人間という生物である以上、各々の思想や意見も持つことは当然であり使命でありまして、その思想の食い違いや些細な擦れ違いによって争いは繰り広げられてしまうのです。“どちらが正しいか”という命題を証明したい人間の闘争本能が働くのでしょうか。こうしてこれまでも世界では戦争が起きてしまい、“人間”である故に残酷な道筋を辿ってしまったのであります。

「目玉焼きにかける調味料論争」という言わば答えの出ない争いに終止符を打てるのか。これも我々人間、そして日本人の命題でございます。ここで本日は、この論争を終焉に向かわせる為の一つの手掛かりとなり得よう私の思想を発表して参りたいと思います。

 

 

“醤油”にせよ“ソース”にせよ、いずれも個性的かつ万能な調味料であることは間違えがございません。和の風味を香り立たせ日本の食材とのマッチングによりキレを生み出す醤油。かわって洋風のモダンでエキゾチックな甘味と酸味により、とりわけ揚げ物との抜群の相性を誇るソース。どちらも我々日本人の食生活には欠かすことが出来ない調味料であり、突出した個性を放っております。

そして議題となっている「目玉焼き」という料理。卵をフライパンに直に割り入れただ焼くだけというシンプルな調理法で生み出されるものですが、シンプル故に多くの人々に親しまれ、またシンプル故に様々な調味料によるアレンジが効くというところが、このような思想の衝突や亀裂をもたらすのである。そして言わずもがな、醤油・ソースどちらも相性が抜群なのである。争いが起こるのも無理はない、ということである。

 

私アッチ自身、目玉焼きにかける調味料としてどちらがより秀でてるのか、というのは非常に決め難いところである。しかしこのまま横一線の議論の果てに血を見る展開になってしまうのは平和的観念から回避したいと考えている。そこで、そのための道標の一つとするべく私の考えをいよいよ発表したい。

 

私は定義する。それは「使い分け(TSUKAIWAKE)だ。

 

日本の誇りであるお米。白飯のおかずとして目玉焼きを食する際は醤油を使用する。白飯の上に目玉焼きを乗せ、醤油をかけて食べることが大好きな私であるが、半熟の黄身と醤油が絡み合い、またそれがトロリと米粒一つ一つの間に染み込み、この上ない至福の味を生み出すのである。お分かりだろうが、白米と醤油の相性は抜群であり、その関係性はまさにロミオとジュリエット(?)である。間違いないのだ。

 

そして、トーストと共に目玉焼きを食する際はソースを使用する。こんがりと焼かれたパンの上に目玉焼きを乗せ、ソースをかける。マヨネーズを追加するのもまたご一興だ。これもまた半熟の黄身とソースが奏でるハーモニーが堪らなく、洋のエッセンスである小麦とソースの関係性の良さは言うまでもない。美味すぎるのだ。パンの時はソースなのだ。またソースである効率性も存在する。仮にここで醤油を使用するとあまりのその液体の瑞々しさにより、艶やかな目玉焼きに対して「はじき」の現象を起こしてしまうのである。よって、とろみのあるソースの方が手で持って食べるトースト的には食べやすくて理にかなっているとも言えるのである。

 

いかがだろうか。どちらが正しいか、などはもう終わった話であるのだ。この「使い分け」を実践している私はもうネクストレベルに達している。今となっては完全に俯瞰の目である。どちらも正しいのだ。みんな違ってみんな良い、これである。

このように、お互いの良さをリスペクトし合うことが大切である。サザンオールスターズ「ピースとハイライト」の一節にも、

“色んな事情があるけどさ 知ろうよ 互いのイイところ!! ”

とあるが、まさにこの精神が大切なのである。互いを知り合い、歩み寄る考え方が平和への近道なのである。希望の苗を植えていきたい次第である。

どうか皆さんにも「使い分け」を推奨したい。行かないか、次の時代へ…

 

 

ってなんなんすか本当。笑 評論スタイルで文章書くの疲れるんですよ。笑

ともあれこれ本当にやってますからね。どっちもマジで美味い。結局醤油もソースも相性抜群なんですよ。食べ物で揉めるの止めましょうよ。どちらも最高なんだから。

 

ついでに“犬派か猫派か?”と聞かれたら、どっちも好きと答えますからね。だってどっちもカワイイですもん。決められんですわ。

 

ついでにたけのこ派きのこ派か?”と聞かれたら、

 

圧倒的にたけのこ派です。

(ズテーーーー!!!!!!!!!)

 

以上アッチでした!ではまた!